跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/08/08 BGM: Kid606 - Cute Never Dies

時折スマートフォンや鏡に映る自分の顔を見ることがある。そしてさすがに「老けたなあ」と思い……そして今日も職場のトイレに行った時に鏡で自分の顔を見て、ふと自分の眼を見てしまった。その時に、前に断酒会で先輩に言われたことを思い出した。「(入会したばかりの時のあなたは)眼が死んでましたよ」と言われたことだ。それは確かにそのとおりだと思う。入会したばかりの時は、まだ右も左もわかっていなかった。何しろ酒はこのみじめな人生において残されたたった1つの生きがいだった。職場でうれしいことがあったと言えば「祝い酒」を呑み自分なりに盛大に祝う。そして悲しいことや悔しいことがあったと言えば「やけ酒」でウサを晴らす。それ以外にも、さすがに仕事前に呑むことはできなかったが(飲酒運転になってしまうので)何か重大なことをやる前は「気つけの1杯」を呷る。あるいは疲れた時は「これが『大人のスポーツドリンク』だ」といって酒を呑む。そんな暮らしをずっと続けてきたのだった……と書いて、あらためて今こうして命があることが奇跡だなと思う。アルコール依存症が極まるとたいていは50代初めで命を落とすというが、ぼくの呑み方はほんとうに半端ではなかったからだ。

そんなことを考え、あらためて自分の眼のことを思う。今のぼくの眼はどうだろうか、と……「目は口ほどにものを言い」とも言うが、ぼくの眼はどんなことを人に対して語りかけているのか興味を持つ。あの40歳の4月3日に酒を止めさせてもらった時、思ったのは「これでやっと『昼飯代まで削って酒を呑む暮らし』から解放されるな」ということだった。情けないけれど、その頃は実家に住んでいながら自分が食べたご飯の食器すら親に洗わせてしまっていた。とんだ「ドラ息子」だが、ぼくも「自分はなんてダメな子なんだ」と自虐的な考えに染まっていたから酒に溺れていたとも言える(言い訳にもならない?)。そこから酒を断つ暮らしを始めて、さすがにすんなりその実家ぐらしを抜けるということはできなかったので「とにかく、このままじゃいけない」と思い始めてそれでぼくは「せめて自分が食べた食器は自分で洗おう」と思い立った。それで皿を洗い始めた……最初はその皿洗いも「適量」のキュキュットだったりJOYだったりをスポンジやお皿にどうなじませるべきかわからずシンク周りを泡だらけにしてしまいあきれられたものだが、何とかそれも板につき始めた。今でもぼくは食べたものの皿は自分で洗うようにしている。

今日の詩で、ぼくはそんなことをあれこれ作品にしてみた。過去、ぼくは「人を見かけで判断するやつ(特にそんな『軽薄』な『女性』)はバカだ」とまで思っていた。だからとんでもない格好で町を歩いていたと思う。ヘアスタイルだって平然と丸刈りにしてみたり、かと言えばもみあげ・ひげを伸ばし放題でうろついたり、着る服だって家にいる延長上でジャージやパジャマ姿で外に出たり……今は「さすがにパジャマ姿で出るのはカッコ悪いな」と思うようにもなった。とはいえ、それでも鏡を見て「鼻毛を切るのを忘れてた」とショックを受けることもしばしばなのだけれど……でも過去にバイ菌扱いされてさんざんに嫌われていた時期を思えば多少は進歩したとは言えるのかもしれない(あくまで「多少は」だけど)。就職活動などで「スーツなんか着ない。Tシャツで活動するのがおれのやり方だ」と自分を曲げない人の話を時に聞くこともある。まあそれはそれで1つのやり方ではある。でも、この歳まで生きて自分自身をそうして外にある「社会性」の器というか枠の中に当てはめるようにしてみると、そうした「規範に自分を合わせる」ことから学べたりもするものだなと思う。それも1つの生き方ではあるかもしれない。

器や枠に自分を合わせる……ということでなら、ぼくが書いている詩だって「14行」の行数と末尾の脚韻のルールを踏まえて書くわけだから「合わせる」ものだ。ゆえに窮屈な思いをする。もちろん、そんな行数を破ることだってできる。韻だって踏まないで書いてもいい(ぼくが知る狭い範囲で語るなら、例えばルイーズ・グリュックの詩はそうした韻を踏んでいない)。そしてそうした「合わせない」やり方こそが新たなルールを作ることにもつながる……と書いていて読む方はいらいらしてきたかもしれない。「『合わせる』のがいいのか、『合わせない』のがいいのかどっちなんだ」と。ぼくは「『合わせない』やり方を支持するが、時に『合わせる』ことからクリエイティブなものが生まれる可能性だってある」と答えたい。別の言い方をすれば「クリエイティブなものへの道は『合わせない』やり方だけに開かれているわけではなく、『合わせる』やり方にも開かれている」と……眼の話から変な展開になってしまった。ぼくの書くものはたいていこんな感じで言いたいことがどんどん脱線してしまうのだった。過去、丸刈りや学ランを着て厳格に校則に従っていた時でさえ「お前ほどのひねくれ者は見たことがない」と言われたことを思い出す。