跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/07/24 BGM: Primal Scream - 5 Years Ahead Of My Time

今日は遅番だった。朝、いつものようにイオンのフードコートに行きそこで詩を書く。そして詩作が終わったあと、ふとThreadsをいじりたくなる。だが、いったい何を投稿していいのかわからなくなる……思えばTwitterイーロン・マスクに買収されて以降、ぼくはTwitterをぜんぜん使わなくなってしまった。別にイーロン・マスクに恨みがあるわけではなく、これに関してはただ「特にわけもなく」としか言いようがない。村上春樹なら「ソーシャルメディアなんてやめてディケンズを読みましょう」と言うのだろうけれど、ぼくは俗物なのでそこまで割り切れないでソーシャルメディアをいくつか使ってしまっている。挙げればFacebookやTelegram、あるいはLINE……だが、Twitterに関して言えば「シェアしたいことがない」「主張したいことも、まして世界に向けて愚痴りたいことも何もない」と言うしかないのだった。長文を投稿できるFacebookで日記を書き、友だちとTelegramやLINEなどでやり取りするとそれでぼくの中身は「空っぽ」になってしまうのでそれ以上アウトプットしたいこともなくなってしまう。下手に愚痴を言うと叩かれるかもしれないとも思い、なら何も言わないのも利口な態度ということかもしれないと思い沈黙してしまっている。

過去にぼくはTwitterの「フリーク」「ヘビーユーザー」だったことを思い出す。1日に100くらいつぶやいていたのではなかっただろうか。当時何をつぶやいていたのか思い出せない。あの頃は酒に溺れていた時期でもあったので、ずいぶんルーズ・無防備にあれこれ「吠えて」いたことは思い出せる。日本の政治に盾突いたり、会社の上司に噛み付いたり(だが、だったらその上司か誰かに「直で」「リアルで」訴えるか何とかすべきなので、Twitterで「吠えて」も何の解決にもならないのは言うまでもない)……まさに「狂犬」だったなと赤面してしまう。それで当然のこととして他人とトラブルになり、仕事にも差し障りが出るという事態にもなったっけ。誰から頼まれたわけでもなく、報酬がどこからか出るわけでもないのにどうしてそこまで「のめり込む」ことになったのかわからない。ただ、凡庸な言い方になるが結局は「承認欲求」「僕を見て、僕を褒めて(浅田彰)」という心理からだったのかなとは思う。リアルでぜんぜん一顧だにされない自分も、ネットならいっぱしの論客気取りで「物申す」ことができる……ということだ。ただ、ぼくはその心理を「そんなやつは弱虫だ」と切り捨てる気にもなれない。現実社会を相対化し「かき回す」ためのメディアとしてTwitterなどのソーシャルメディアが機能するのは、皮肉抜きで「大事なこと」だとも思うのだ。

あるいは意地悪く・冷笑的に言えば「でも、春樹だってソーシャルメディアは使っていないかもしれないけれど自己表現として小説を書いているじゃないか。あれは『承認欲求』とは関係ないのか」という話にもなろう。となると「承認欲求」、つまり「僕を見て、僕を褒めて」という心理がまったくの悪なのかという問題にもなる。ぼくはそうした「他人に理解されたい」気持ちが無条件で悪だとは思わない。かつてはぼくは孤高の一匹狼を気取ってずいぶん向こう見ずに生きてきたけれど、今は「自分は人によって支えられている」「人が居なくては自分は成り立たない」と思う。ソーシャルメディアは他人が読みうることが前提となる。そこに何か投稿する際、それは人に「必ず」読まれる(読まれたくないなら鍵をかけるべきなのだ)。ゆえに、他人を意識して(もっと言えば「他人に読まれたい」と思って)投稿しシェアすることは実にまっとうなことだとも思うのだった。だが、知られるようにそうして他人を意識して振る舞い続けると「SNS疲れ」が生まれ始める。ぼくもしんどい思いをしながらTwitterをやめることができず、投稿をストップすることもできずに苦労したことを思い出す。その頃と比べるとずいぶん自分は変わったものだ。

結局、ソーシャルメディアやひいてはインターネット自体に何を求めるかなのだろう。人によってはTwitterで「不特定多数」の「オーディエンス」相手に「演説」をかましたい人もいるだろう。それはそれで1つの使い方であり、ぼくはとやかく言う気はない。ぼくだってかつてはずいぶんやかましく「演説」したから……でも、今はそこまでして「演説」することで「目立とう」とも「フォロワーを増やそう」とも考えていない。もちろん、詩の読者が増えれば御の字ではある。だけど、たぶん断酒会で話を聞いてもらえるようになったりし始めた頃からぼくの中にあった「煮えたぎる」「承認欲求」は影を潜めた。「SNS疲れ」もなく、バズりたいとも思わなくもなり……それで「これでいい」のかもしれないなとも思う。やみくもに現状維持・是認をするのは「老い」の証拠であるとは思うけれどこればかりはしょうがない。ぼくは「Twitterをやめろ」「Twitterはバカバカしい」とは言わない。詭弁になるが、「バカバカしい」からといってやってはいけない理由にはならないとも思う。結局は心の赴くままに、自然に、自分が求めているものに耳を傾けて最善手を選び生きていくことが大事なのかなと思う。とはいえ気まぐれな発達障害者ゆえに、来月あたりThreadsで1日200くらい投稿するところまで「ハマる」こともありうるのだけど……。