跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/07/18 BGM: INXS - New Sensation

なかなか読書のための時間が取れていないので、せっかく買った谷川俊太郎『空の青さを見つめていると』を読めていないのだった。今日は早番だったので、仕事をこなした後昼休みに詩を書く。おっかなびっくり書き始めた詩も少しずつ溜まってきた。今年が終わるまでにどれだけの詩を書き溜められるだろう。いや、実に飽きっぽい性格なので明日「めんどくさいのでもうやめよう」となるかもしれないのだけれど、今の率直な気持ちを言えば「書けるだけ書きたい」「せめて1冊は詩集を作ってみたい」と思っている。ぼくの友だちには絵を描く人が居るので、彼女の絵を表紙に使わせてもらえないだろうかと考えたり……そこでさっそく詩集のタイトルすらあれこれ考え始めてしまう。ぼくはバンドを組む際に「中身」「コンテンツ」にあたる曲作りについてぜんぜん取り組まず、それよりはまず「外側」「パッケージ」にあたるバンド名から考え始めるような人間なのだった。しかもこれまでは「サンプリング」と称してその「ガワ」は人の猿真似・パクリでごまかしていた。今思うと実に汗顔の至りで、今名乗っている「throbbing disco cat」という名前にしても石野卓球のアルバムのタイトルを安直にパクったのだった(卓球氏からすれば「こいつは一発殴らないと気がすまない」と思っておられるるだろう)。

「真似はしたいけれど、やりたいことは特にない」……過去のぼくはまさにそんな人間だった。いや、創作というのは得てしてそういうものなのかもしれない。少なくともぼくは天才ではないので、まったく何もないところからオリジナリティあふれる創作を始めることなんてできない。まずは真似から始める。外側にあるものに自分を合わせていく。外の規範に合わせて自分を鍛えていく。腕立て伏せやスクワットといった運動で身体を作っていくように。あるいは修業中の作家が先人の文章の読書や模写に励んだように。でも、そうしてやっていてもそんな真似からはみ出て自分というものが顔を見せる可能性がありうる。村上春樹だってただのアメリカ文学の真似・模倣にとどまらず彼自身のオリジナリティが芽を出し始めたのだし(ただ、彼のスタイルが「なお」アメリカ文学の猿真似に終始しているではないかという見方もありうるのもわかる)。そう思うとオリジナリティについて考えるのは面白い。あるいはまったくオリジナリティに頼らずコピーに徹することが逆説的にユニークな表現となりうるケースもあるだろう。アンディ・ウォーホルの芸術、あるいはピチカート・ファイヴの音楽。

これだけの芸術がアーカイヴとして参照可能な時代、つまりググればたやすくサンプリング・ソースがわかってしまう時代。ぼくたちは図書館を携帯して歩いているようなものだ。そんな時代の流れに応じて、詩も文学も変わらざるをえないだろう。ぼくは批評家ではないのでその変化がどう向かうかわからないけれど、過去なら「わかる人だけにわかる」「『通』だけが楽しめる」ものであった「サンプリング」の方法論が今は大衆化・一般化されてしまった。そんな状況からほんとうに「誰も見たことのないようなもの」「わけがわからないもの」をひねり出すにはどうしたらいいのだろうかと考えてしまう……やれやれ、こうして創作について考え始めるとぼくの「寝ぼけた頭」が働き始めるのを感じる。テオドール・アドルノは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と言ったけれど、ぼくはそれでも人が生きている限り詩や小説は必要とされると信じている。アドルノの批判はそうした詩や小説が「商品」に成り果てて「ぬるく」なってしまうこと、「現状追認」に堕することだと受け取るのだけれど……さすがにこの短いスペースでこれについて考える余裕はない、ので逃げることにする。申し訳ない!

仕事が終わった後、詩の清書を済ませる。そして英会話教室に行く。今日のレッスンは趣向が変わっており、「表現とスラング」についてだった。スラングでどんな表現がありうるのか教わる。日本語にもなっている「チル」や「ヴァイブ」といった言葉について。その後慣用句について学ぶ。「氷山の一角」「鉄は熱いうちに打て」といった言葉だ。そこから生徒たちがそうしたスラングや慣用句・ことわざについて知っているものを披露しあった。ぼくが思いついたのは「神ってる」「神対応」といったもので、あとは「本の虫」「時は金なり」が思い浮かんだ。チャットをしていると出くわす「lmfao」や「lol」(どちらも書き言葉の「草」や「笑」に対応する)についても。今日得たスラングについての知識をさっそく詩にできないかなとも思ってしまう。明日は図書館が開くので行ってみてソネット集を借りてみようかな、と……いや、「シェイクスピア以降、詩を書くことはアホである」ということになるのかもしれないけれど、それでもぼくは(多分発達障害の影響もあって)アクティブに動き回らずにはいられないのだった。その結果揶揄されても、人をコントロールすることはできないので「それでよし」と居直るしかないとも思う。