跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/03/02 BGM: Ryuichi Sakamoto - aqua

今日は早番だった。3月に入り、寒波の影響の雪で困っていたのが嘘のように春めいてきた。何か新しいことが起きそうな予感がする。私の人生もそろそろソウルメイトとの出会いがないだろうか、とか考えたり。昼休みに村上春樹神の子どもたちはみな踊る』を読み始める。阪神淡路大震災を受けて書かれた短編が収められた1冊で、私自身かつてあの震災が起きた直後にこの本を読み耽って感動した記憶がある。今になって、つまり東日本大震災を経て読み返すとまた違った趣を感じる。自分はつくづく村上春樹と(時にあまりにも彼に影響を受けすぎてしまったことから意識して距離を置こうと思ったこともあるにせよ)一緒に走ってきたなと思う。これはあくまで個人的な見解の域を出ないのだけれど、村上春樹は私にとって三島由紀夫ボブ・ディランのようなポップスターだ(私の世代だとカート・コバーンが該当するだろうか)。何度も書いてきたが、彼の一挙手一投足に憧れてきたことを思い出せる。

神の子どもたちはみな踊る』はしかし、震災に苦しめられた神戸を直接描くものではない。この短編集の登場人物たちは皆、その震災の現場から遠く離れた場所で暮らす人たちばかりだ。彼らは震災が現在進行形で起きている現場の様子をテレビなどで知りながら、そこから離れた場所で平穏な日常を生きている。震災が起きた土地では惨状が露呈している。だが、そこから離れた「ここ」では日常が展開されている……どちらも同じ世界で起きていることである。だが、そこには歴然としたギャップ/相違がある。そんな非現実的な状況をこの短編集では描き切っていると思った。そして、私自身も阪神淡路大震災東日本大震災においてそうした登場人物たちと同じ「被災しなかった者」として生きてきた。だが確実に私は(恐らくは他の日本国の住民たちと同じく)震災の残響/余波を聞き取りそれに翻弄されてきた。そんなことが思い浮かんだ。

思えばそうした震災(阪神淡路大震災東日本大震災)を踏まえて数々の作品が作られてきた。深読みがすぎるかもしれないが、たまたま思いついたので挙げると新海誠君の名は。』もそうした作品として読めるかもしれない。それはある意味では震災という具体的/アクチュアルな国難を自分の中に引き受け、そこから真摯な作品を生み出すということである。悪く言えば震災を「ダシにする」ことで自己表現するということでもあろう。ゆえにクリエイターたちはそうした「ダシにする」責任を問われることになる(優れた作品として昇華することが求められる)。その意味で難しい境地に挑んだ短編集だと思った。そして、これもあくまで個人的な見解になるが(ファンの贔屓目がすぎるかもしれないが)私はこの短編集を愛すべき優れたものとして受け止める。そして、あの時代から自分が離れて今というハード・タイムを生きていることを噛み締めたいと思ってしまう。

夜、ZOOMでミーティングを行う。パソコンが古すぎるせいで繋がりにくくなってきたので(貧乏は悲しい)、スマートフォンで参加した。今回は黒豆が日本の食文化に及ぼした影響についてのレクチャーで、実に細かいところまで調べられたものであることに唸る。江戸時代の食卓がそのまま蘇ってきそうな濃い内容で、これはもう時代小説の世界だと唸らされた(もっとも、私は時代小説はまったくもってド素人なので見当違いかもしれない)。来週は私の発表の版が回ってくるということで、前にも書いたがアフォリズムをテーマに語れればと思っている。人生、いろいろある。だがどんな時も私はオスカー・ワイルドよろしく空を見上げていたいと思う。あるいはどん底に落ちてどうにもならなかった時期にアイザック・バシェヴィス・シンガーの至言「人生は神の小説である。神に書かせるんだ」という一節に励まされたこと、などなど……。