Back To Life

Back To Reality

2021/10/11

前に書いたインドネシアのジュディスさんが、新しいイラストを送って下さった。非常に有難いと思った。それだけではなくて、Discordでも私の日記は他の方に読まれているという。「あなたは人々に影響を与えている。知らないだけだ」と言われた。もちろん書いているものが他人に影響を及ぼしているということは嬉しいことなのだけれど、私は自分の思っていることを正直に明かしているだけなのでそれがどんな影響となって及んでいるのか、全くわからない。私はいつものように自分のことについて書く。それだけを続けてきたし、これからもそうだろう。

今日は休みだった。通院日で、先生に思いの丈を話す。蒸し暑いような変な天気が続くけれど、身体に気をつけましょうと言われた。私は自分の両親に感謝しないといけない、と思った。こんな丈夫な身体に生んでもらったのだから、あんなに酒を呑んだ日々が続いた後でも生きていける。風邪もそんなに対して引くこともなく、インフルエンザやコロナとも今のところ無縁で過ごせている。通院が終わるとグループホームに帰り、片岡義男日本語の外へ』を読んで過ごした。なかなか終わらない、難しい本なのですぐに眠くなってしまう。

日本語の外へ』を読んでいると、日本語と英語の違いについて考えたくさせられる。引用したい箇所はいっぱいあるのだけれど、長くなりそうなのでかいつまんで書いてみることにする。私たちは母国語で物事を捉え、考える。言葉がないと私たちは(ヘレン・ケラーが水を「水だ!」と、実際のものと言葉を結びつけたように)概念を捉えるのに苦労する。ならば全く違った言語体系、つまり外国語で考えるということは母国語の呪縛の「外」に出ることを意味することになる。そこに外国語で考える面白さがある。

「母国語によって長い年月をかけてつちかわれた思考や発想の外に出ることは、ごく控えめに言っても、至難の業だろう。その難しさや面倒さにくらべれば、思考や発想は母国語のまま、それを薄皮一枚の英語にくるんで喋ったり書いたりするほうが、はるかにたやすい」と片岡は書く(文庫版339ページ)。これは日本語の発想をそのまま英語にしようとする人を批判した言葉であり、具体的には政治家や実業家の英語への意見だ。確かにそのとおりだと思うのだが、私の英語はどうだろうか。私は「薄皮一枚の英語」しか書けていないだろうか?