跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/10/07

市内の国際交流協会が行う英会話教室の案内が届いた。前回は参加費が出せなくて泣く泣く諦めたのだけれど、今回は参加したい。自分にとって英会話教室とは、もちろん英語を学ぶべき大事な機会を与えてくれる場ではあるのだけれど、それ以上に同じ志を持つ人たちと繋がることができる場であるとも思っている。どんな人と出会うことになるのか楽しみだ。しかし、もちろん心配もしている。このコロナ禍の中英会話教室をやるということが、新たな感染リスクを引き起こすことにならないか、と。そう思うと不安にもなる。

片岡義男の『言葉と人生』を読んだので、昔読んだ『日本語の外へ』を読み返したくなって引っ張り出して少しだけ読んだ。湾岸戦争について書かれた箇所を読み、私の子どもの頃のことを思い出した。湾岸戦争の時期私は高校生だったのだけれど、戦争について反戦の立場を(幼いながら)採りたいなと思いつつ、でもどうその意見を主張したらいいのかわからないで悶々としていたのだった。片岡義男のテクストは戦争の原因やその戦争時に政治家がなにを語ったのかといったことをわかりやすく語ってくれる。だから、高校生だった当時至らなかった部分について考えをめぐらせることができる。

私はよく「私は思う」「私は思った」ということを英語でも書いてしまうのだけれど、これはネイティブの人から見れば「優柔不断」に映ると聞いた。自分の意見なら「私の意見としては」という但し書きを使うなり、あるいはそんなエクスキューズを省いて言い切ることが大事だ、と。それはそれで一理あるのだけれど、私は「思う」という言葉について「自分の主観を出ない見解として」「一個人の感想として」という意味として使っている。なので、私の「私は思う」という言葉遣いをどう変えるべきか、あるいは変えない方がいいのか考えている。

どんなものも日本に入ってくると、日本の文化に染められてしまう。ハンバーガーだって日本に入ればテリヤキバーガーになるし、コラボレーションにしたって日本語の中では「コラボ」という短縮された言葉になる。日本語の魔力というのはそれだけ強力なので、その中で閉じこもってしまわないで、しかしその日本語の魔力のよさを活かしつつ考えを深めていきたい。片岡義男の本からはそんな風に「日本語の魔力」について考えるきっかけをもらっているように思う。真にノーベル文学賞に相応しいのは、むしろ片岡義男なのではないか。少なくとも『日本語の外へ』は名著であると思っている。