跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/09/20

台風一過。清々しい天気の1日だった。早番だったのだけど、朝いつものように考え事をする。幸せとは何かについて考えた。ただ座して幸せとは何かを云々考えていても幸せにはなれない気がする。仕事をこなすなり本を読むなり、何かを書き始めるなりして行動することによってこそ幸せとは何かがはっきりしてくるのではないか。身体を動かし始め温めていると、気持ちも興奮してくる。その時、全身全霊を込めて何かに没頭している時に私は確たる幸せを感じられる。そこには小賢しい損得勘定はない。惜しみなく自分のエネルギーをアクティビティの中に注ぎ込める。それが幸せなのだと思う。

幸せとは……でも、私はある意味ではもう充分幸せではないかとも思う。もちろんお金も欲しいしロマンスだって味わいたいし、そんなマテリアルな欲望が自分の中には煮えたぎっている。プロの作家になるという夢を諦めたわけではない。ただ同時に、私はもう確かに信頼できる読み手の方、あるいは端的に信頼できる友だちや先輩に恵まれているとも思う。DiscordにもMeWeにも、Facebookにもリアルにも、至るところにそうした友だちが居るのを感じる。私に愛を以て接して下さっている方々を犠牲にした幸せに私は興味はない。今の幸せの延長上に、もっと大きくなれる可能性があればいいのだけれど。

友だちのために、あるいは先輩たちのためにせめて何か書けないだろうか? とふと考えた。それで、タイトルを急ごしらえで「undercooled」と決めて自分の中で煮えたぎっている感情について書きたくなってきたので、仕事が終わるとさっそくグループホームに帰って書き始めた。ジュディスさんやリアルでの発達障害関連の知り合いの方、英語学習のWhatsAppのグループで知り合った方やMeWeで知り合った方、様々な方にこのメッセージが届けばいいなと思う。飽きっぽい自分なのだけれど、これはいつまで続くだろうか(コメントなどいただければ書き続けるモチベーションになるかもしれません。他力本願になりますが)。

夜、台風が私の精神を蝕んでいたのか、疲れて早々に眠ってしまった。おかげで有意義な活動が何もできなかった。まあしょうがない。私は結局大成することもなく人生を閉じるのだろう。ベストセラー作家になれず、成功や勝利の味もわからないまま……でもある意味ではこれもまた勝利だろう。書きたいことを書ける。大事な人に読んでもらえる。親しくして下さる方に自分の弱音を語れる。過去に手ひどく裏切られて傷ついた過去を思い出す。まあ、肝腎の作品がないと成功どころの騒ぎではない。なので「undercooled」を書き続けたいと思う。

kakuyomu.jp

2022/09/19

台風が本格的に迫ってきた。雨風が強くなってきたので仕事場に行くことはおろか、外に出ることさえできない。なので仕事は休ませてもらって、あらかじめ買い込んでいたインスタント食品を頼りに「巣ごもり」で過ごすことになった。とはいえ、こうしてまとまった時間が与えられると貧乏性な身の上なのでいったいどう過ごしていいかわからず、午前中はただDiscordで友だちとやり取りして過ごすことになった。海外から友だちが励ましのメッセージをくれたのでそれが本当にありがたかった。何となく使い始めたDiscordなのだけれど、いつも友だちからは元気をもらっている。

グループホームのスタッフの方が、こんな悪天候なのにあちこち走り回って下さってお弁当を提供して下さった。これもまたありがたいことだ。幸いなことに、こちらは停電に悩まされることもなく過ごすことができた。LINEやWhatsAppでも旧知の間柄の方が連絡を寄せて下さった。人の優しさが本当にありがたいと思う。昼からテンションも変わり、本を読めるようになってきたので池澤夏樹マシアス・ギリの失脚』を読む。この小説は高校生の頃だったか読んだことがあったと思ったのだけれど、まったく覚えていなかったのでまっさらな気持ちで読むことができた。

ラテンアメリカ文学の影響が色濃い作品だと聞いていて、確かにマジックリアリズム的な不思議な展開を備えた作品ではあるのだけれど、私はこの作品の中にアジア的な文化を見い出せる気がした。「もののあはれ」とでも言おうか、栄華を極めた人がいずれ没落する(「失脚」?)する無常が記されているように思われたのだ。そんな運命にある私たちだからこそ、「今」を受け容れて生きること。そんな読み方をしたのだけれど、間違っているかもしれない。私はこの作品のマシアス・ギリが好きになった。流動する世界の中のひとつのコマでしかない男……でもそれは私だって同じ。私もまた、この世界の中ではひとつのコマでしかないのだ。ならその運命を笑って楽しむことが大事なのだろう。何だかシェイクスピア、あるいはクストリッツァの映画みたいだけど。

夜、本ばかり読んで過ごすのもアホくさいのでドキュメンタリーでも観ようかとも思ったのだが、集中できずただ無駄に時間が過ぎてしまった。何だかこんな風にして私の後半の人生も読書ばかりで過ぎていくのかなあ、と思うとそれこそアホくさい。だが、それが私の性分なので仕方がない。古井由吉フェルナンド・ペソアを読み、坂本龍一『CHASM』を聴く(「Undercooled」という曲にハマっている。韓国語の響きが心地よいと思ったのは初めてだ)。流行りの話題からすっかり遠ざかり、自分だけの世界に浸る……これが「隠居生活」というやつなのだろうか、と思った。人生に飽きた、という境地にはさすがにまだ遠いが。

2022/09/18

BGM: John Lennon "Give Peace A Chance"

今日は発達障害を考えるミーティングの日だった。私は自分自身がここ最近失敗して落ち込んでいたという話をした。そしてDiscordで友だちに支えられて元気を取り戻せたことも……他の方もこの話に興味を示して下さったのが嬉しかった。Discordでは主に英語でやり取りしているのだけれど、考えてみればこのミーティングで出会った方の励ましがあってこそ私は英語でいろんなことを発表するようになったのだから、人との縁/繋がりの奥深さについて考えさせられた。ZOOMでのやり取りとなったが、楽しいひと時を過ごせた。

他の方から話されたこととして、自分のことを発達障害ではないかと思い悩む人にどう接したらいいかという話題が出た。私が言えるとしたらまず診断を受けてみることを薦めたい。そこで行われるテストやカウンセリングなどで自分自身の特性をさらに深く知ることができるからだ。そして、発達障害であることにそう囚われすぎて視野が狭くなってしまうことはもったいないとも思う。誰にだって幸せに生きる権利はある。私がまさにそうしているように発達障害を考える様々な自助グループとつながることも薦めたいと思う。むろん、その後どうするかはその人次第なのだけれど。

その後時間があった。台風接近で気分的にもすぐれないので、外岡秀俊『傍観者からの手紙』を読んですごす。碩学の書き手が綴ったロンドンからの手紙が収められており、読んでいて2003年から2005年の世界の動向がわかる。イラク戦争があり、その後のゴタゴタがあったこと。アメリカと欧州で実に空気が違っていたこと。そしてこの著者は実によく読み、よく映画を観ていることがわかりその勉強熱心さに頭が下がる。リベラルな知識人の書いたものとしては良質のものであるだろう。私自身、もっとこの著者の書いたものを読み込みたいと思った。

夜、9/11をめぐるネットフリックスのドキュメンタリー『ターニング・ポイント』を完走する。9/11以降のアメリカの迷走や混乱が生々しく綴られている。平和を築くこと、対話を重ねることが大事なのは言うまでもないことだが、それを実現させるためにはどれだけの粘り強さ/辛抱が必要となるだろう。お互いの利害の不一致や誤解や不信から裏切られることもあるだろうし、あるいは長期的なヴィジョンが見えないことが場当たり的な政策となってさらに問題をこじらせることもありうる。このドキュメンタリーはそうした問題をまざまざと現す。だが、希望をも垣間見させてくれる。双方にとって平和こそ希望だという共通認識が成り立ちうる、という希望だ。それが印象深い。

2022/09/17

BGM: Rhymester "ウィークエンド・シャッフル"

今朝、仕事前にライムスター「LIFE GOES ON」を聴き返す。「LIFE STILL GOES ON」というメッセージが沁みる。人生はまだまだ続く……私自身、自分の人生を振り返っていつかビッグになる、いつかプロの作家になると思って無理をした日々のことを思い出す。結局結果的にはそうなれず、挫折を抱えて今まで生きてきたわけだがそれで人生は終わらずまだまだ続いている。そして人生は思いもよらないドラマを私に導いてくれたわけで、今はジョブコーチやこれから訪れる50代の人生のことを考えられる。ああ、人生とは不思議なものだ。

今日は早番だった。この仕事にしても、始めた当初はここまで長く続けることもまったく考えておらず、まして仕事からたくさんのことを学べるということも予想しておらず、ただ食うため、面子のためにやってきたのだった。あえて反時代的な表現を使えば「男の意地」というやつだ。両親が高齢だったためにニートになるということもできず、私自身仕事をしないと自分はダメになると思って必死だった……ダメになったかどうかはわからないが、ともあれ仕事をしてきたことは正解だったのかもしれない。私はそうして鍛えられたのだと思った。

台風が近づいてきている。もしかしたら仕事はおろか、部屋から出ることさえできないしれない。いざという時のためにインスタント食品を買い込み、部屋の中に留まって読むために池澤夏樹マシアス・ギリの失脚』という長い小説を借りてきた。明日のミーティングで話すためのメモを作る。Discordから学んだことについて、最近の失敗について……うまく喋れる自信なんてこれっぽっちもない。だが、ミーティングに集うのは仲間たちばかりなので、失敗して恥をかいてもいいやと考えることにする。猪木に倣って恥をかこうと思った。しくじってこそ面白いと。

夜、村上春樹『やがて哀しき外国語』を少し読む。村上春樹が書いたものを読むのも久しぶりだ。高校生の頃にひょんなことから『1973年のピンボール』を読んだことで彼の世界を知り、高校生の頃は『ノルウェイの森』をバイブルのように(いや、むしろお守りのように?)持ち歩いていたことを思い出す。ゆえに一時期そんな村上春樹フリークの自分が嫌になってわざと悪口を言った時期もあったのだが、今こうしてニュートラルな心境で読むとまた違った味わいがある。春樹のことを好きで何が悪い、という自分が居る。多分この愛憎(アンビバレントな感情)を抱えたまま私は成長していくのだろう。

2022/09/16

BGM: オリジナル・ラブ "朝日のあたる道"

今日は遅番だった。朝、あまり調子が良くなかったのだけれど仕事を休むわけにもいかないのでいつもの日課を行う。朝食を食べてシャワーを浴び、日記を書く。そうすると少し調子が上向いてきたように思った。気持ちに左右されず、やるべきことをやってみること。仕事においてもプライベートにおいても、こうしてタスクを淡々とこなすこと。それが自分を前に推し進めてくれることを改めて実感する。その後時間があったのでネットフリックスで9/11に関するドキュメンタリー『ターニング・ポイント』第3話を観た。

池澤夏樹『終わりと始まり 2.0』を読む。この本は実は前にも読んだことがあったのだけれど、今読むと池澤夏樹が実はかなりこちらを挑発しているような、そんな印象を抱いた。とはいえ下品に煽ってそそのかす類のものではなく、私たちにも安倍政権やトランプ政権の下で暮らす毎日において起こる様々な問題を、おかしいと思わないかと問いかけてきているように思ったのだった。その挑発はそのまま池澤夏樹という人の良心、彼の優しさから出てきているもののように感じられた。私自身、他人の意見を鵜呑みにすることを止めて自分で考えないといけない。

日曜日に行うミーティングで発表する際の資料というか、メモを書くことにした。私がDiscordでサーバというかグループを作ってそこから学んだことを話したいと思ったのだった。もともとDiscordを使い始めるようになったきっかけは詳しく思い出せないのだけれど、私はゲーマーではないのでただ英語でチャットできればと思って言語交換絡みのサーバに出入りするようになり、そこから友だちと英語で語らうようになった。そうしていると日本語でちまちまコミュニケーションすることだけに留まらない、広い視野で物事を捉えられるようになったというところはあると思う。そんなことを話そうと思った。

今日仕事ができたのも、そんな風にDiscordで知り合った友だちとのコミュニケーションで支えられたことが大きかったのだった。いつの間にか私のサーバにも人が集まってくれて、活発にチャットを使って話をしてくれている。私はリーダーシップがある人間でもない。常に優柔不断で弱っちく、脆い人間だ。でも、どんな時も自分なりに誠実に対処することを心がけている。この歳まで生きてきて、私は強くなれない自分を肯定することに決めて弱っちいままに誠実になろうと思うようになった。そうだ。これが私なりの生き方なので、「これでいいのだ」(赤塚不二夫)!

2022/09/15

BGM: George Harrison "All Things Must Pass"

一件、ここに書けない事情があり鬱に陥る。一時はベッドから起き上がれないかと思うほど落ち込んだのだけれど、自分自身を責め続けても事態は好転しないのでとにかく打開策を考えないといけない。グループホームの方と相談し、後は自分自身でできることをあれこれ考える。その一環として感情日記というものをつけることにした。自分自身が何を感じているか、どう困っているかを書き出すというものだ。そうすることによって心の中が整理されて、どんな風に過去にトラブルから回復できたかが見えてくる。それが精神衛生上にいいのだと教わったので、早速始めることにした。

考えてみればこの日記にしても、当初は自分自身のためになるとは考えずただDiscordやMeWeなどでつながっている友だちに自分の生活を教えたいと思ったから始めたのだった。それが、今は自分の生活に欠かせない作業となっている。書くことは自分の性に合っているのだろう。ああ、昔は「あなたは現実から逃げるために書いている」と言われて、その通りで私も書くことで必死にままならない現実から逃げることを試みたのだけれど、今は様々な問題に自分なりに対処するために書いている。書くことはこれからも続けることだろうと思う。

後藤繁雄『skmt 坂本龍一とは誰か』を読む。坂本龍一がこの本の中で、自分自身をいついかなる時でも同じもの、一貫した存在として押し通すのではなく様々に変わりうるものとして語り、文字通り変わっていく自分をそのまま表していることが印象的だった。私自身自分自身に忠実にあろうとして苦しむことがある。昨日の自分と今日の自分が違う場合、そこに整合性を持たせることが時に難しくなることがあるからだ。坂本龍一は今なおひとりの「スキゾ・キッド」なのかもしれない。時には「自分自身」を貫くプレッシャーから「逃走」(浅田彰)することも大事、というように。

夜、ミーティングに参加してそこで言語行動について学ぶ。日本人やタイ人、中国人といった様々な人々の文化とそこから現れる特徴的な言語行動について。遅刻したりミスしたりした時、簡単に謝ってしまう文化と理由を滔々と述べる文化(つまりなかなか謝らない文化)がありうるという話になる。これは日本の特徴的な「謝罪下手」「外交下手」という現象と関係してくるのかもしれない。ならば、他国/他文化から学ぶことは自分の文化やコミュニケーション・スキルを見直すきっかけになる。英語を学ぶ意義を今一度確かめられ、またひとつ学び得たと思った。

2022/09/14

BGM: Ryuichi Sakamoto "tong poo"

今日と明日は休みなので、両親と兄の住む実家に戻ることにした。朝、朝活の一環でイオンで考え事をする。本を持参したが読めず、ただぼんやりして過ごしてしまった。そこでスマートフォンが壊れてしまい、ショップに持っていくもコロナ禍の現在は予約が必要とのことで焦る。結局あれこれしていたら直ったのでホッとした。図書館に行き、池澤夏樹『新世紀へようこそ』を借りる。秋めいてきたせいか、エリック・クラプトンのアンプラグド盤やボブ・ディランが歌うフォーク・ソング、坂本龍一のピアノ演奏が身に沁みる。

実家に着いた後ひと眠りして昼ご飯として寿司を食べ、『新世紀へようこそ』を読む。9.11直後に始められた彼のメールマガジンを集成したもので、彼のフットワークの軽さに敬意を感じる。事態を冷静に睨み、そして状況に果敢に発言する。これは池澤夏樹自身が読書家でありなおかつ様々な土地を歩いてきたアクティビストだからできることだろう。勇敢なイデオローグだと思う。彼の視点は反米・反グローバリズムに立つものだが、同時に単純にブッシュを罵倒するのでもなくテロや戦争でダメージを負う人々に寄り添うものであると感じる。人々が爆撃や地雷で死んでいく。その情景を想像しようとするヒューマニズムを感じた。

知られるように9.11のテロから世界はイラク戦争になだれ込み、そこから反グローバリズムの動きも勃興してきた。私はシングル・スタンダードな世界に端的に馴染めず、したがって多様化を支持したいと思っている。だが、こうした政治的なことについて論陣を張るつもりはない。そうするには私は端的に心が弱っちいし、もっと知っておかなくてはならないことも山ほどあると感じている。ロシア対ウクライナの戦争についてももっと考えたいと思う。そのためには時にはこうして過去の文献から学び直し、反省することも大事だと思った。

ジャン=リュック・ゴダールの死でまだネットが揺れている。過去に私自身がゴダールについて書いた文を読み返し、自分のゴダール観はぜんぜん進歩していないなと反省した。ゴダールのイメージやバイアスについて語るのではなく、改めてゴダールに直に触れて震撼するところから始めないといけない。ネットフリックスで観始めた9.11同時多発テロに関するドキュメンタリーもまだ残っているし、これからしばらく腰を据えて映画やドラマやドキュメンタリーと取り組むのもいいかなと思う。まあ、焦る必要はない。あくまで自分の楽しみとしてボチボチ取り組んでいけたらと思う。