だが、ぼくは「flatter」という言葉もあったことを思い出したのでその場で質問してしまった。とはいうもののまったくもってこれには自信がなく、だから手元にある辞書を引き直さないといけないなと思ったりもしたのだった(そういう「うろ覚え」というか、まったくもってアテにならない思いつき・記憶違いから恥をかくことは発達障害者たるぼくの生活においては「日常茶飯事」である)。しかしホストの女性が、その言葉も使われるのだから大丈夫と太鼓判を押してくださった。そして、こうした場で生きた英語を学ぶにあたってあまりミスを犯すことに神経質・過敏にならずどんどん相手に訊くことが大事だとも教えて下さった。眼前にいる方にどんどん思っていることを話すポジティブな姿勢が大事ということかな、とも受け取った。これもまた、新年に確かに受け取った大事なレッスンというかメッセージとありがたく思う。
その後、この年末年始期間に借りていた本を返しあらためて5冊本を借りることにする。そして、さすがにミーティングを2つ「ハシゴ」してしまっていて濃い内容で脳が疲れていたこともあったので気分を休めるべくあれこれ借りたい本を見繕う。迷ったりもしたが、自分自身の「神経質すぎる」「生きづらい」精神を見直すべく夏目漱石の『草枕』を再読しようと思ったのとあとは前々から興味を惹かれていた佐藤究『テスカトリポカ』、水村美苗『大使とその妻』(上巻のみ)などを借りる。その後はなんと! イオンに行きそこでAORの珠玉の名曲群(ドゥービー・ブラザーズやボズ・スキャッグスなど)を堪能しつつ英語であれこれ思いついたことをメモ書きする。いろいろあるにせよ、こうした基本のぼくの生活のフォームは変わらないようだ。英語のZoom、英語のメモ書き、読書、そしてエバーグリーンな音楽の鑑賞。今年はどんな本と出くわすだろう。読めるなら過去ハマった京極夏彦の再読などもしたいとも思ったり(漱石はどこへ行った!)。
午後になり、グループホームの本家に行く。ぼくは毎週の初め、こうして本家に行きそこで1週間分のお金を受け取ってその後管理者・副管理者の方々とあれこれ話し合う時間を作ってもらっている。こんかいもいつ実家に帰るかとかそんなことを話し合い、その後去年にぼくが描いてその後グループホーム近くのカフェで展示させてもらっていた大きな絵が戻ってきていると教わる。どうしたいか訊かれて、そこで返事に困ってしまった。たしか木枠は再利用できる(カンバスだって上から新たに塗り直すこともできる)とは知っていたものの……ぼくの住むところの部屋に飾るか、実家に置かせてもらうか(ただ、ぼくの一存ではできないことだ)。それでともかく「考えさせて下さい」と返事をしてその場を去ってから、新年の挨拶をしたかったこととこの話を相談したいこともあってブックカフェに行く。ぼくにその絵を描くことを薦めて下さったそのカフェのオーナーに改めて絵のことをいろはの次元から教わり、あたたかいアドバイスを頂戴した。ああ、このコネクションをほんとうにありがたく思っている。
ふと目をやると、大江健三郎『静かな生活』の単行本が置かれていることを見つけてそれについてオーナーの方と話す。大江健三郎について言えば、ぼくが大学生の頃彼がノーベル文学賞を受賞したりしてしばし話題になっていたことを思い出す。その後、個人的な話をすればぼくは大学を出てからしばし職にあぶれ(当時は新卒で就職できなければけっこうきつい環境に追い込まれたのだった。いやもちろん、ガッツのある人は当時だろうとなんだろうと起業したりしていたにせよ、ぼくにはそんなガッツがあるわけもなかった)、それゆえに精神的に追い詰められてニートとして過ごしていた時期があったりもした。そうなると、図体ばかり健康な20代の多動性の発達障害者の常として家でじっと落ち着いて過ごしていられず、退屈と戦うしかなく往生してそれで勢いあまってあれこれ大江健三郎や中上健次をめくってしのいだりもしたのだった。とはいえ、そんなせっかちな読みで大江もへったくれもあったものではなく、いま思うと「なんだったんだろう」と赤面してしまったりもする。ともあれ、そんなことを思い出しつつカフェを出て、夕食を摂りその後は就寝時間まで澤田直『フェルナンド・ペソア伝』を読みつつ過ごす。