跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/06/08 BGM: yeule - Eva (George Clanton Remix)

1990年代、ぼくが大学生だったころから思えばぼくの生活とは実に文字どおり、「常時接続」なものというかむしろ「過剰接続」「つながりすぎ」なものでさえあったかなとも思える。ああ、インターネットを通して、この接続を介してぼくは世界からさまざまなこと、数え切れないほどのことを学んだ。このことについて思いを馳せると、ぼくはこのすばらしい発明品であるインターネットにあらためて感謝の念を抱く。でも最近になって、ぼくは「断絶」を試みること、「距離を置く」ことを考えることが大事かなとも思うようになった。このぼく自身の生活と、ぼくの外に広がる広大なインターネットの海との「あいだ」の話だ。いやもちろん、このスマートフォンを捨ててきっぱり「スマホ断ち」するなんて決断力がぼくにあるわけもないのだけど(そこは認めないと話が進まないだろう)。一時的な実験に終わると思うけれど、でもまた山に行って自然を満喫してこの「バズる」世界、ハッスルに満ちた世界からしばし身を離す時間を取ることが必要なんだろうかと思えてきた。仕事中はこんなことを頭の片隅で考えた。

なんたってこんなことを考えたんだろう。その一因として、たぶんぼくが図書館で借りてしまった書籍の1冊であるヘンリー・デイヴィッド・ソロー『ウォールデン 森の生活』のことが挙げられるだろう。この本の中でソローは森の中に独り棲むことを試み、その独居を通して見つめたもの・感じたことをエッセイとして書き留めたのだった。アメリカ文学を学んでいた大学生の頃、この本を読みソローの実に繊細な文体に感激したことを思い出す。でも、30年も前に読んだきりなのでまた読み返す必要があるはずだ。

この文字どおりの「サイバー」な生活を顧みて、ぼく自身も実にガラクタのような情報に引き裂かれそうになりながら生きていることに思いを馳せる。そうしたガラクタのほとんどはゴシップだとか他愛もないことばかりで、ぼくの人生とは直接絡むものではない。いやもちろん、ゴシップに興じることを一概にくだらないとは言わない(そんなことを言い出せば、このぼくが好んで読む本にしたってとどのつまりは市井の人々の瑣事をゴシップ的に描いたような小説やノンフィクションでしかない)。でも、この生活の土台がしっかりしてないとそんなゴシップだって楽しみようがないだろう。楽しく生きるとか、未来に夢を描くとかそんなことも土台となる生活(衣食住)が整っていないと実現しようがない。いつも書いているけれどぼくはほんとうに「吹けば飛ぶよな」塵のような人間なので、簡単にインターネットがもたらす情報の暴力的な影響にふっ飛ばされてしまう。これも認めたくない事実だが、認めないと始まらない。

でも、すでに書いたようにソローが『ウォールデン』で試したような森の中での独居、もしくは「スマホ断ち」「ネット断ち」なんて果敢な決心をこなして新しい人生を生き始める偉業などできるわけもない。仕事が終わり、本当ならまた夜に読書を楽しんだりネットフリックスでなにか見ようかなとか考えていたのだけれどすでに疲れ果てていたせいで、今日はぐっすり早々に眠ってしまったのだった。自分でもあきれるほどランダムな人生だと思う。もうご存知のとおり、ぼくの活動とはこうしたかたちでダイス(サイコロ)を振って決めるような1種の博打的なところがある。ギャンブル的というか、綿密なスケジューリングとはほど遠いでたらめな日々を過ごしているというのが実情なのだった。だからことによると、明日はぜんぜん違うことを考えているかもしれない。まったくもって違う分野の本を読み、違うことを考えているかも……ああ、この心は実に、明日の天気のようにミステリアスな存在だ。