跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/06/02 BGM: Massive Attack - What Your Soul Sings

自意識過剰の極みかなとも思うのだけれど、ぼくの中を見つめていくとそこには常になにかをしゃべり続けているさまざまな人格(パーソナリティ)がいることに気付かされることがある。多重人格というほど深刻なものではないにせよ、これを書いているこのぼくはそんな多彩なぼくの中の声をひろい上げる1人の記録者なのではないかと思ったりもする(つまり、ぼくはそうしたぼくの中の人格の代弁者ないし黒子にすぎないということだ……のっけからわかりにくい話でごめんなさい)。

つまり、ぼくは自分のかけがえのないたいせつなテーマなんて持っておらずそうした人格にとってのメガフォンの役割を果たしているだけと言えばいいか。彼らがぼくをしてこう書かせている(いまだってたぶんそうだ)。なら、そんな彼らはなにを語っているのか。彼らはたぶん、混沌としていて生肉のように血がしたたるフレッシュなメッセージをこのぼくを通して語っている(だからぼく、あるいはぼくの中のそうした人格の少なくとも1つとはーーいまに始まったこっちゃなくこれまでまでだってさんざん書いてきたけれどーーある意味とても黒曜石みたく「どす黒い」のだった)。

今朝はただベッドの上で寝っ転がってそのまま1日つぶしたかったのだけれど、外がとても明るくなってきたので眼が冴えてしまい二度寝なんて無理ゲーだった。また、部屋の中にいると妄想・恐怖が頭の中でふくらんできて爆発しそうになる(間寛平師匠言うところの「脳みそバーン」な状態だ)。それで居ても立っても居られなくなり、外に出た。でも、この日記でもさんざん書いてきたけれどとくに行くべきところ・見るべきところがぼくにとってあるわけもない。カラオケもジムも金がかかる。また山に行くか古本屋に行くかとか考えて、結局図書館に行ってオクタビオ・パスポール・ヴァレリーの本を借りたりした。昼食を摂ってまったり横になってうつらうつら午睡めいた時間を楽しんだ後、借りた本や部屋の本をテキトーにページをめくって過ごしたのだった。

さいきんはぼくも感性の老化・保守化がはなはだしく、なかなか新鮮な本・未知の本(とりわけ小説)を読めていない。借りた本の1冊は先にも書いたけれどオクタビオ・パス散文詩のコレクション『鷲か太陽か?』で、読んでいるとぼくもなにか散文詩として書くのも(正確には「書きなぐる」のも)面白そうかなとも思った。こざかしい知略・戦略を捨ててのびのびと……いやもちろんパスのように行くとは思わないが。読みつつふと自分の中で語り続け、しゃべり続けている声(先にも書いたが、ぼくの中にいる白かったり黒かったりする人格)に耳を傾けようとした。

日記からどうぼくのことが皆さんに映っているかぼくにはまったくもってわからないのだけれど、でも明々白々な事実としてぼくはこの人生においてずっとそうした声に引き裂かれてきた1人の「混沌」「でたらめ」極まりない人なのかなあとも思ってしまう。過去を振り返ってみても(いや、そんな深刻なことをしなくともこの散らかった部屋をざっと見渡せばそれだけで足りる)、ぼくがこれまでの人生で考えてきたことはシンプルでミニマルな、ムダのないものとはとうてい言いがたい。たくさんのことに目移りして……昨日は村上春樹、今日はフェルナンド・ペソア、なんてコロコロ関心領域が変わってしまうのだった。なんだかスロットマシンのようだ。

作家になれっこないことはそうした事実からわかる。というのは、作家とは1つのテーマを「コトコト」と煮詰めつづけるねばり強さを要するからだ。ぼくは違う。断片的な・多彩なアイデアをアクション・ペインティングのように書く。この日記、この「なぐり書き」に価値や意味があるのかわからない……書いていてなんだか情けなくなってきた。ただ、書かずにはいられないから書くのだった……たぶんオクタビオ・パスだってそうだったと信じたい。