まだ100ページほどしか読めていないのだけれど、すでに確かにこの本は甘美な自伝としての安定感に満ちた風格を感じさせて、読んでいて心地よい(だが、確かな「トゲ」もあって決してあなどってはいけない本でもあろう)。ぼくはもちろん日本人なのだけれど、自分自身の幼少期をこの著者の誠実な文体を追いかけるうちに思い返してしまった(ということは、ぼくも『わたしの日本』が書ける?)。始まりのところを読み、ぼくたちは確かに「第三空間(サード・プレイス)」と呼ばれるところが必要だなと思った。カフェや図書館(は違うかな?)のような、政治や文化を語れる「行きつけの場」だ。
そして、ぼくは思う。劇的な変化に満ちた波乱万丈の人生とはどういったものなのか。こんなことを考えてしまうのはそのカレン・チャンの人生を追ううちにぼく自身、ぼくの人生があまりにものっぺりした「ワンパターン」「ルーティン」に沿ったものだからかなと思う。遠目から見ればたしかにいろんな劇的なことがらは起きたのだ(「革命的」とさえ言えるかもしれない)。東日本大震災が起こり、コロナ禍があり、政権さえ少なくとも1度は交代したりした。でも、そんな時間をぼくはずっと呑んだくれて過ごしたので記憶になく、確かににらみつけて生きることもしなかった。だからまったく思い出せないのだった。
昼になり、ある友だち(過去にぼくのグループホームでお世話になったスタッフの方)と再会する。彼女がトラブルを抱えているということで、ぼくのところに来られたのだ。WhatsAppについてである。日本ではこのWhatsApp、日本語でも使えるのにまだまだメジャーとは言いがたい(ぼく自身も普段はLINEを使っている)。あれこれ奮闘してやっと動くようになったのでホッとした(この歳になると、最新型のデバイスと向き合い理解するのは骨が折れる)。
夕飯を食べ終え、断酒会に行く。そこで、反省事項としてさまざまなことを振り返りつつ語る。こないだの日曜のイースターイベント、昨日の英会話教室、などなど。その後グループホームに戻り、『わたしの香港』の続きを消灯時間まで読む。そしてアジアの音楽(香港や台湾、中国などなど)を探るのも面白いかな、と思いPrune Deerというバンドの曲にたどり着いた。実にアメイジングな、感情を揺さぶるポストロックだと思う。