跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/02/09 BGM: Manic Street Preachers - Everything Must Go

今週のお題「ほろ苦い思い出」

ぼくが高校生だった頃、どんな文脈でこの言葉が出てきたのかはすっかり忘れてしまったのだけれど、坂本龍一が記したエッセイで「喪の仕事」(つまり「グリーフワーク」)という言葉を知った。いま、ある友だちの訃報のニュースを聞いたあと、この言葉を頻繁に思い出すようになった。この言葉の意味としては、もし何か哀しみに打ちひしがれてつらい感情を味わっている時ーーとりわけ、親しい人との別れを経験せざるをえない時ーーその哀しみから急速に立ち直ろうとしてはいけないのだということを示している。まずぼくたちは浸れるだけ哀しみに浸りきり、深く「沈む」ことが大事でありそうすることによって回復する手がかりを得られる、ということになる。

今日は遅番だった。今朝、イオンに行きヒマな時間を使って何か読書をしようかと考えた。でも、どんなページを開いても頭に入らないのであきらめてメモを書き始めることにした。いまでもなお、ぼくはその友だちの死に心を掴まれてしまっているようだ。でもなんにせよ、ぼくは生きていかなければならない。指を動かしてこの日記を書き続ける。哀しみにとどまり続けることを選ぶのではなく。

日本の文化・言葉は面白い言い回しを持つ。それは「日にち薬」というもので、つまり過ぎゆく時間、ダメージ(苦しみ)を耐えて経過させていく時間の経緯が心をそのまま癒やすということになろうか。ぼくにとって、この言葉・概念は先に書いた「喪の仕事」と同じことを言っているようにも思った。ゆっくり着実に、傷ついた心を見つめて癒やしていく必要がある。

午後5時、職場での休憩時間に突然ぼくがこれまで何度も読み返してきた馴染み深い小説を思い出した。それは泣く子も黙る村上春樹ノルウェイの森』で、10回ほど読み返してきたことになろうか。親しい人との別れの辛さ(とりわけ、死別の辛さ)を描いたものとしていまなお鮮烈にぼくの記憶に残る。高校生だった頃読み、その優雅・典雅な陰鬱さ・切実さにやられたものだ。30年が経つが、いったい何が変わっただろうか。

山田風太郎だったか、「最愛の人が亡くなっても、人は晩飯を食う」といったことを語っていたはずだ(正確に字句を引いた引用ではない。こういう内容だったと思う……調べる時間がなかった。申し訳ない!)。ぼくは生きているので、日々の糧を口に入れる。そして、英語の言い回しを引くならつねに「エブリシング・マスト・ゴー(何もかもが過ぎゆく)」。