跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/01/13 BGM: The Beatles - The Long And Winding Road

ときどきこんなことを訊かれる。「どれくらい長い間英語を勉強されているんですか?」。実を言うと、いまぼくは49歳なのだけれど英語を学び始めたのが13歳の時でつまりぼくが中学生の頃からなのだ(日本ではぼくの世代の人にはこうした形での英語学習の入り方はめずらしいことではない……と思う。もちろん例外もあるだろうけれど)。そして高校時代の学習を終えたあと、ぼくは大学に行きそこで英文学を修めたのだった(とりわけ、アメリカ文学を学びビートニクについて深く深く知ろうとした)。13歳から49歳。だから、かれこれ35年以上「歴」を持つことになろうか。でも、そうした長い時間の中には「空白期間(ブランク)」もある。その「空白期間」は文字通り、ただひたすら呑んだくれていた。なので威張れたものではない。

最近、こんなふうな書き込みを目にした。「日常会話レベルの英語ができるようになりたいです」。思うに……ぼくはそんなにも長く英語と向き合ってきたけれど(これが皮肉・あてこすりに聞こえないことを祈るしかないのだけれど)、いまでもぼくは「英語で(しかもペラペラと)」スターバックスのようなカフェないしコーヒーショップでコーヒー1杯を注文できるかどうか、それはまったくもってあやしいというのが本音だ。これに関して嘘をつく気はない。日常会話、あるいは雑談の場ではぼくは聞く力、話す力、そして知識を自家薬籠中の物として引き出す確かな力を要するだろう。

では、代案(?)としてその人にどう「効く」「役立つ」「使える」アドバイスを言えるか。わからない。だけど、こんなことは言えるかなと思う。おわかりのようにぼくはぜんぜん「流暢に」言葉を話せない。日本語でだってぼくは会話をうまくこなせない(ぼくが話し始めると――ここまで書いてきた文にしたってそうだけど――しばしば込み入った、難解きわまりないものになってしまう)。でも、ぼくはオープンマインドを意識して会話をぼくなりに、下手なりに楽しみたいなとは思う。一期一会、貴重な他人との対面・対座においてどう会話・歓談を楽しむか。そのオープンマインドを意識して、言葉の奔流・渦の中に自分を流す。ビートルズの哲学さながら「レット・イット・ビー(なすがままに)」「愛こそはすべて」を意識して。

でも、ウィトゲンシュタインを読む読者としていまでもぼくはこんな考えに囚われていることを告白する。「ほんとうかな……ぼくの英語は他人にとって平たくわかりやすいんだろうか。実は単なる『ちんぷんかんぷん』『デタラメ』なんじゃないだろうか(ぼくが『これは通じる』と思い込んでるだけで)」と。アホみたいな考えだけど。「きみはぼくを夢想家と言う。でも、ぼくは1人じゃないよ」と歌ったのはジョン・レノン「イマジン」だった……おふざけが過ぎたようだ。かくのごとく、今日も今日とて「哲学」をこじらせてこんなことを考えたのだった。