跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/08/13

BGM: Mouse On Mars "Saturday Night Worldcup Fieber"

給料が入った。思ったより多く振り込まれていたので、まさか間違えて振り込まれたということはないだろうなと心配になってしまう(そういう事件ありましたね)。それで図書館に行った後、久しぶりに古本屋に行った。欲しかったのは片岡義男がかつて書いた風俗小説だったのだけれど、結果的に買ったのは乙一『小生物語』とジョージ・オーウェル1984年』、そして小川洋子だった。乙一『小生物語』は前に読んだことがあって、実にチャーミングな日記だと思っていたのでこうした再会は嬉しい。私も乙一のような稚気に富んだ「嘘日記」を書いてみようかとも考えた。帰宅後さっそくグループホームの風呂で飼っているマーメイドのシャーロットのための食事を作った。なんちゃって。

今日は休みだった。昼、サム・シェパードモーテル・クロニクルズ』を読む。サム・シェパードのことはヴィム・ヴェンダースの映画『パリ、テキサス』くらいでしか知らなかったが、もっと男臭いダンディズムをイメージしていた。だが、訳者はそんなサム・シェパードのモノローグ/エッセイに「ぼく」「俺」という一人称を当てており、そうした工夫がサム・シェパードの語り口に厚みを与えているように感じられる。結果として彼の「声」がくっきり浮かび上がってくる。これは大した工夫だ、と舌を巻いた。考えてみれば『パリ、テキサス』も「声」の映画だったな、と思う(時代はスマホでテキスト主体のやり取りになりつつあるが、私はこうした「声」に愛着を感じる)。

その後、チャールズ・ブコウスキー『町でいちばんの美女』を少し読む。ブコウスキーと言えばいつも酒にすがりついていた「酔いどれ詩人」ぶりで有名だが、かつては私もそんなブコウスキーを気取って「酔いどれ詩人」になりたいと思っていたことを思い出す(私はそんな端的に「イタい」人間なのです)。だが、この短編集では訳者の青野聰は「私」という一人称でブコウスキーの筆致を訳しており、結果としてブコウスキーが冷徹に女性たちを観察し物事を捉えている様子が浮かび上がる仕上がりとなっている。ひと口で言えばブコウスキーの「知性」が見えてくる。これは侮れない。

ソバーキュリアス、という言葉を学ぶ。これはこんな宅飲みが許された時代に敢えてシラフでいることを選択し、禁酒や節酒を始める風潮のことだという。私は酒を呑まないのはそんなソバーキュリアスとは関係なしに、ただ単に依存症なので呑むと地獄を見るのがわかっているからである。ぜんぜんカッコいいものではない。ある意味ではほどほどに呑める人の方が、酒に人生の主導権を握られていないわけだからよっぽどクールなのだとさえ考えられる。ただ、このまま断酒を続けてゆくゆくは日本の文壇に「シラフ文学」というジャンルを設立するのもいいかなと思ってしまった。嘘!!