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秋の日誌4

ここに、最高の自己実現、誰にでも適性がありかつ人生の最高目標に据えるにふさわしいことが、一つ残されています。それこそ、はじめに触れました「自分自身になる」ということです。すべての人は個人なのだから、そのまま何もしなくとも人生の最高目標をもう達成してしまっていると考えるなら、そんな甘いものではない。人生の目標は自分自身「である」ことではなく、自分自身「になる」ことです。(中島義道『哲学の教科書』)

ぼくが中島義道の書いたものと出会ったのは大学生の頃のことです。『〈対話〉のない社会』だったと思います。騒音問題や言葉を信用しないコミュニケーション(阿吽の呼吸、というやつです)を痛罵して、言葉で明示的に/理知的にコミュニケーションを実践することを説いた本でした(と書けば難解そうな本と思われるかもしれませんが、ちっともそんなことはありません。今なお「使える」本だと思います)。その本に惹かれて、ぼくは中島義道の世界に入りました。彼を通して哲学とはなにかを考え、色々な本を読むようになったのです。とはいえ、彼が研究しているイマニュエル・カントの本は読んだことがありません。太刀打ちできなかったからです。恥ずかしい話ですが……。

ところで、これを読んでおられるあなたに質問したいことがあります。あなたは、自分のことを幸せな人間だと思いますか? 不幸な人間だと思いますか? なぜこんな(失礼な)ことを訊くのかというと、ぼくはかつて自分のことを不幸な人間だと思っていたからです。いや、信じていたと言ってもいいかもしれません。「自分は不幸だ」というのが信念として凝り固まった人間であり、敢えて言えばそれ故に自分の首を絞めていた人間だったからだとも思います。ただ、今年で46歳になるぼくには色々なことがあったのです。例えば、ぼくは発達障害者です。2007年、とある女友達が指摘してくれたぼくのオフでの無礼さについて考えている際に、「もしかしたら」と考えて調べる決心をしたのです(それを報告した時、彼女の第一声は「自覚がなかったの!?」でした)。

発達障害者として生まれたこと。これはもちろん、ぼくが望んだことではありません。ぼくだってできることなら定型発達者が味わえることを色々やってみたいと思います。例えば、ぼくは不器用なので車を運転できません。一応免許は持っているのですが、身元を証明するために使うのが関の山です。あるいは、ぼくだって雑談をしてみたいと思います。ですが、ぼくが考えつくことは奇矯というか突拍子もないことばかりなので誰とも話が噛み合いません。だからぼくは、人と仲睦まじく会話をすることを望むのは鳥が水の中を泳ぐことを望むのと同じで、構造的な欠陥/特性によりできないのだと諦めています。まあ、それが人生というやつです!

それ以外にも、ぼくはロスト・ジェネレーションの一員として生まれ厳しい受験競争をくぐり抜けなければなりませんでした。そして就職氷河期にどこの会社にも就職できず、今なお貧乏な生活を強いられています。まあ、このあたりでやめておきましょう。ただ、ぼくは最近「それでも、ぼくの人生は悪くないな」と思えるようになりました。それにはたくさんのことを諦める必要があったことをまず書いておきます。ぼくは車に乗ることを諦め、従ってそういうことが要求される企業で働くことを諦めました。だからぼくは贅沢な暮らしをすることができません。千円を超えるランチを食べることができません。好きな本だってそうそう買えはしません。老後なんて想像もつきません。

でも、ぼくはそういうものが手に入らないから諦めることにしました。俗に言う「いい会社」にも入らないし、「いい人生」も過ごさない。それより今あるもの、今手に入っているものを味わうこと。考えてみれば「いい会社」とはなんでしょう。ぼくが今勤めている会社だって、今の仕事だって充分ぼくにとっては「いい会社」です(なにしろ、こんな使いにくい社員を使って下さっているのですから!)。千円のランチが食べられないなら五百円の弁当を食べればいい。それで充分「いい人生」じゃないか。そう思うようにしたのです。考え方を訓練した、というべきかもしません。そうしていると、ぼくの中から余分な欲が消え失せていったのです。

そうして、手に入るものの中で幸せを探すことを続けているうちにぼくは「今」「この人生」が捨てたものではないと思えてきました。ぼくは酒は飲みません。アルコール依存症と診断されたのです。一時期(前にも書きましたが)ぼくは狂ったように酒を呑み、酒で死ねたら本望、40で死ねたら満足と無軌道な生き方をしていました。その40の歳に酒を止め、志を同じくする断酒会の方々と一緒に断酒の日々を送っています。シラフで食べるグループホームの食事の旨いこと! ぼくは本質的に単純な人間なので、ご飯が美味しければそれだけで満足なのです。いや、ご飯を食べる有難味を噛み締めている内に感性が研ぎ澄まされて、単純になったのかもしれません。

「いい会社」「いい人生」を諦め、「今」「この人生」を楽しむ。そんなことを続けていると、改めて中島義道が言ったことが沁みてくるように思います。何者かになろうとすること、自分ではない人間(英語で言う「サムワン」「一角の人物」です)になろうとすることをやめて、ぼくになること。あるいは、ぼくの心の奥底から「なりたい」と思えるような人間になること。そんなことを目指してきたのがぼくの40代だと思います。例えば、小津安二郎の映画に出てくる老人のように「足るを知る者は富む」を地で歩む人間になること。あるいは、貧しく慎ましく生きながら独自の哲学を練り上げたウィトゲンシュタインのように生きること。そんなことを目指してきて今まで生きました。これからもそうでしょう。

ぼくは、夏目漱石の『夢十夜』を思い出します。今手元にないのでうろ覚えで書くのですが、彫刻家が無理をせず木(石だったかな?)の中から仁王像を掘り出すようにして掘るように、ぼくも無理しないでぼくの中からぼくのコアと呼べるもの、本物の自分と呼べる自分自身を掘り出したいと思います。それは多分、贅沢やムダを愛するのではなく(贅沢を望む生き方がくだらない、なんてひと言も言うつもりはありませんよ!)、シンプルな生き方の中にぼくが安住できる場所を見つけてそこで益体もない空想や哲学に浸ること、そういうことだと思うのです。そして、それを言葉にする。今日もぼくは日記を日本語と英語で書きます。これからも続けるのでしょう。