跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/01/22 BGM: フィッシュマンズ - いかれたBaby

今日は休みだった。朝、イオンに行きいつものようにいろいろ考え事をする。1つ思い出したことがあった。断酒会に通い始めた時、参加者の方から「最初に会った時は目が死んでたよ」と言われたことだ。それはもっともなことで、断酒し始めの頃は会の意義もわからずまだ酒に未練があった。そして同時にその酒を断ち、自分なりに新しい生き方を探さなければならなかった。つまり酒という生き甲斐を失ったばかりだったのだから、生きる意欲というものがまったく湧いてもいなかったということになる。夏目漱石ではないが、あの頃の私は「迷える羊」だった。だが、断酒会の先輩の背中を信じて前に進むことにしたのだった……そして今、確かな生き甲斐を感じて生きていられる。それも人生。

今日は5度目のワクチン接種(ファイザー。ちなみに指定したわけではないが5度ともファイザーである)を済ませるべく、山崎スポーツセンターに行った。私は車を運転できないので会場までバスに乗って赴くことになった。時間通りに運行されたバスに乗ってスムーズに行くことができ、そこで接種を無事終えることができた。このスムーズさは現場で働いておられる方々のおかげだ。エッセンシャルワーカーの方々や市役所の方々(断酒会絡みで顔見知りの方もおられた)に感謝する。そして帰ってきて、イオンで昼食を買う。明日も休みをもらっているのでゆっくりしたい。

ふと、もしこの日記をかつての私のような酒を止められない人、あるいは人生において深刻に困っている人が読んでいたら、と思ってしまった。そんな人に向けられる言葉を私は持たない。その人たちの人生はその人たちのものであり、私が無責任にアドバイスをするわけにもいかない。私は「酒を呑むな」とは言いたくない。適度に呑める人、そして健康を損なっても構わない人は自己責任の範囲で呑んだらいいとも思う。ただ、私は酒で自分の人生をスクラップにしてしまった。その悔いから、せめてこれからは自分の人生を能動的に、かつ幸せに生きたいと思っている。20代と30代、人生において「種まき」をするべき時期を私はただただ飲酒でつぶし、結局今になって思い返してみてもぜんぜん楽しい記憶なんてない、そんなアホみたいな人生を送ったのだ……。

永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』を読む。実に深い本だと唸った。夢と現実の違い、自分がここにいるということ、コミュニケーション、死とは何か……どれも古(いにしえ)の哲学の問題を受け継ぐものであり、その深みをそのまま読者である子どもたちに伝えんと奮闘しているのが伺える。私も高校時代にこの本と出会っていたら、もしかしたら本腰を入れて哲学を学びたいと思ったかもしれない。でも、今からでも遅くはないと信じたい。永井均の猿真似をするのではなく(学ぶための猿真似の意義を否定するわけではないが)、自分が子どもの頃からしつこく考えていることを自分で納得のいくように考えることを大事にしたい。それにしても、この本で語られる「対話」のスリリングなこと!

2023/01/21 BGM: くるり - World's End Supernova

いつも書いていることだけれど、学生時代はずっと悪夢のような日々を過ごしていた。学校では友だちなんて誰一人できず、それどころかずっと変人扱いされて暮らしていたので、私も諦めて独りぼっちで本を読むか音楽を聞くかして死んだように生きていたのだった。尾崎豊が歌うプロテスト・ソングでは教室の中のアウトローが管理教育に盾付き自由を渇望する。もちろんそれは大事な視点だと思う。だが、私はむしろ管理されている側の生徒たち自身が生み出す同調圧力自体に息苦しいものを感じていた。管理される生徒たち自体が新たな管理を生み出す。「弱い者たちが夕暮れ/さらに弱い者をたたく」(ブルーハーツ)。

尾崎豊的な「自分たちは管理されている!」と学校の欺瞞を告発する態度は、下手をすれば「管理されている自分たち、圧し潰されそうになっている自分たちは『それゆえに』正しい」とならないだろうか、と思う。主観的に見て弾圧されていると判断することで自分たちの活動を先鋭化させ、自らを正しいと確信する姿勢が盲目的になる……Twitterでもそうした盲信をよく見かける。単に私がアマノジャクだからと言うことで片がつく話だとも思うが、十代の頃からそんな盲信が気になってしまって尾崎豊にはハマれなかったことを思い出す。彼の声や詩才は文句のつけようのないカリスマ的なものだと思うがゆえに、そこが気になってしまったのだった。

そんなことが気になって生きていた私は発達障害の影響ゆえの受動性もあり、あるいはずっと「お前の考え方は間違っている」「お前は異常だ」「お前のような生き方や考え方では大人になっては通用しない」と言い続けられて育ってきたこともあって(クラスメイトや教師からずっと「成績だけよくても何にもならない」と言われてきたのだった)、自分の考え方に自信を持ち、なおかつその自信ゆえに他人からの批判に寛容になるというパラドキシカルな態度を体得するまでにずいぶん時間がかかった。いや、私は幼いので未だに自分の間違いを指摘されると傷つきもするし期限を損ねもする。それは認めなければならない。だが、それでも過去よりはマシになったとは思う。

みにくいアヒルの子」という童話を思い出す。アヒルの社会においてずっと「みにくい」と言い続けられてきたアヒルが、実は白鳥だったという話だ(あの話のキモは、白鳥は生まれながらにして白鳥だったのであったということ、つまり「ありのままでいい」ということだと思う)。私も、定型発達者ばかりのど田舎の社会でずっと「みにくい」と言われて生きてきたので、自分に生きる資格や権利などないのだと思い、一生精神異常者として生きるしかないのだとも思い込んだこともあった……今、英語を使って築いた社会の中で(インターネット上のさまざまなコミュニティで)私は愛されていると確かに感じる。それを思うとつくづく「変」とは何だろう、「異常」あるいは「発達障害」とは何だろうと思ってしまう。それは突き詰めて言えば、「ぼくがぼくであること」が悪いことなのか、ということでもあるのだと思う。

2023/01/20 BGM: Primal Scream - Don't Fight It, Feel It

今日は遅番だった。朝、図書館に行き茂木健一郎『生命と偶有性』を借りる。読んでみたのだけれど、実に面白い本だと思った。私はこの私としてここに居る。これは疑いようのない事実だ。だが、私はもしかしたら他のようにありえたかもしれないと考えてみる。もし私が東京に生まれていたら。あるいはもし、私が早稲田に行っていなかったら。そんな「もし」の視点から見つめてみると、私がこのようにしてあるのはむしろさまざまな偶然が重なって起こったように思われてくる。それを茂木は「偶有性」と呼んでいる。面白い視点だと思った。私は他のどんなようにもありえたのかもしれない……。

そのようにして人生を振り返ると、私の人生を決定づけた出来事がいくつか重なっていることにも気づく。そして、そうした出来事に翻弄されて私は人生を生きてきたということになる。クラスメイトが読んでいた村上春樹を読ませてもらったことから村上春樹の文学と出会い、兄が薦めたから早稲田大学に行き、その後半年ほどニートの時期を経て医師が社会復帰を薦めたから今の会社で働くようになった……これらの出来事がもし1つでも違っていたら、その違いは私の人生を大きく変えただろう。そう思えば人生まさに何が幸いするかわからない。あるいは災いとして働くかわからないものだ……。

最近流行っている「親ガチャ」といった言葉もそうした「偶有性」の観点から説明できるだろう。なぜあの親は私を生んだのか。私はなぜ別の親から生まれることができなかったのか……もちろん子どもが身勝手なことを言っていると一蹴することもできるのだが、私自身自分の親がこんなど田舎に住んでいることも理解できなかったし、私のような発達障害者を生んだということについても責めたい気持ちを持っていた頃もあったのでわかる気がする。そうした「偶有性」を受け容れられず苦しんだ時期があったということになる。だが、そうして「偶有性」が働く不確かな世界こそこの世界の有り様なのであれば、私はその中に飛び込んでサバイブしていかなければならない。

茂木は、私が自分の主観に忠実になることが大いなる客観に届くと記している。例えば何かの本を読み、私が感銘を受けたとする。その感動は私個人の中で完結するものだ(茂木の視点から言えば、私は何らかの「クオリア」を感じているということになる)。だが、その感動を自分の中で掘り下げてそれを言語化し他人に伝えると、私個人の深い感動にすぎなかったものが他人に伝わる。そうすると、それは普遍的価値を持つものとして広がりうる。私がこうした日記を書いていることも、単なる個人的な生活の垂れ流しというか戯れ言の書き殴りではあるのだがそれが同時に他人に届いている。それ自体が実は奇跡である、という視点をこの本から学んだと思った。

2023/01/19 BGM: The Chemical Brothers - Let Forever Be

2年ほど前、まだコロナ禍が始まって間がなかった頃私は姫路の東急ハンズに行った。そこで買ったニーモシネというメモパッドに英語でメモを書き始めた。それまで私はメモを書く時は日本語を使っていたのだけれど、どうしても続かなかった。結局友だちの「あなたは英語を使っている時が活き活きしている」という言葉を手がかりに、試しにやってみようと思って英語でメモを書くようにし始めたらそれがすんなりと「腑に落ちた」のだった。それを思うと私は努力とは何だろうと思う。大事なのはその人に応じたやり方を効率的に見つけることではないか、と思う。それがあってこそ努力は活きる。そのことを私はこの事実から学んだ。

かつては私は自分が発達障害者であることをずいぶん不幸で、惨めなことのように感じていた。何もかもこの障害が悪い、と……今はジョブコーチを通して会社に発達障害について知ってもらうことを試みるようになり、私自身の生活においても単に惨めったらしいことばかりとも言えないこの障害について学ぶことを始めた。これらはでも、結局はさまざまな人との出会いがあってのことだ。私1人で過ごしていたらいつまでも私は自分の世界に留まり、したがって孤独を抱え失意に生きていただろうと思う。そう思うと今は本当に幸せなことだと思う。今は大勢の友だちに囲まれて、楽しく過ごすことができている。

今日は夜、毎週恒例のミーティングがあった。そこで今日はサイコロジカル・セーフティについて学ぶ。職場の中で重視される、「何を言っても受け容れてもらえる」という安全性/安心についてだ。私自身はどうしても職場のコミュニケーションの輪の中で空気を読めなかったり的を外したりしたことを言ってしまう「異物」になってしまう。そうした「異物」をも受け容れ、取り入れて発展していくのがダイバーシティ/多様性なのだろうと思う。いや、こうすんなりとうまく行かないのが実態ではあるので、成功例を聞く度に興味深く思ってしまうのだけれど。

その後、時間があったので永井均『〈子ども〉のための哲学』を読む。なぜ「ぼく」が「(この)ぼく」なのだろうか……そのような問いを私も確かに保持して生きていたと思い出させられる。私自身が見る世界は実は私のために用意された仮想の世界であり、誰もがシナリオに則って過ごしている……というのはさすがにテレビドラマの見すぎであるとは思うのだけれど、ならば誰もが「私は私である」という自我/主体を備えている人間であること、そのような人間が集まって世界を織り成しているということ、その事実の中に端的に私は神秘を見出す。ただこの世界があるというその事実こそが神秘なのだ……ウィトゲンシュタインを思い出す。あるいは保坂和志の小説世界を。

2023/01/18 BGM: PSY・S - Cubic Lovers

今日は休みだった。朝、図書館に行き森田伸子『子どもと哲学を』を借りる。少し読み、実に深い本だと思った。私たちがこの世界に「ある(在る)」ということがどれほど深遠なことかを説明している。私がこの世界に存在するということ……私は過去に「もしも私が生まれてこなかったら」と思って生きていた。発達障害のせいもあってあまりにも嫌われたり笑われたりすることが多かったので、必然的にそんなことを考えさせられたのだろう。もしかしたらみんな幸せに生きられたのかもしれないな……と、そんなことを子ども心に考えて生きていたことを思い出す。この本と出会えてよかったと思った。

今日は断酒会の昼例会があった。私も参加する。1人、参加されたばかりの方がおられた。その方の話を聞きながら、私も過去に参加したばかりのことを思い出した。その頃は不安がつのるばかりだったっけ。今まで酒が「護符」「お守り」だったけれど、その酒をまったく呑まない人生を生きなければならないのだから不安も並大抵のものではなかっただろう。結局断酒会での人間関係のつながりや自分自身が本当に好きだった事柄(読書や音楽、映画など)をエンジョイすることに努めて回復していったのだった。楽しい会話が花咲いたひと時だったと思う。

『子どもと哲学を』を少しずつ読み進める。この本で綴られている、「大人になる」ということが怖かった時期なら自分にもあったことを思い出した。別人になるということだろうか、こんな私のまま大人になってはいけないのだろうか……今なら「杞憂」「思い過ごし」だったなと思えるのだけれど、当時は真剣な問題だった。そして、そんな幼い問題意識を抱えていた私と後に話題となったオウム真理教やその他の組織との距離は近かったとも思う。もしかしたら私も入信していたかもしれない、と思う。紙一重のところで私はシャバに留まることができた。人生とは何なんだろうと思ってしまう。まったくもって謎だ……。

夜、断酒会の例会に参加する。そこで昼に来られていた方とも再びお会いできた。私も体験談を話す。今はまだその方には断酒会のことが見えないかもしれない。私も先輩に導かれて、まったく先の見えない断酒生活をさまようことになったのを思い出す。あとになってその方が今日のこと、断酒を決意した日のことを「よかった」と思われるとしたらこんなにうれしいことはない。私も参加者の中でろれつが回らない中一生懸命断酒を語っておられた方の話を聞かせてもらった、あの日のことを思い出せる。今日がその方にとって有意義な1日だったと思える日が来ますように。

2023/01/17 BGM: New Order - Krafty

いつものことではあるのだけれど、今朝もふと「もうダメかもしれないな」と思った。根拠はない。ただ、いつも書いている英語のメモにしたって「昨日まで書けていたのが今日になって書けないということもあるかもしれない」とも思うことがある。この考え方は突き詰めれば「昨日まで太陽は東から昇ったのに、今日は西から昇るかもしれない」となってしまう(哲学的にはこの考え方はあながちナンセンスとも言えないとは聞くが、現実的には一笑に付されるものであるはずだ)。それで、ずいぶん自分の中で「もう帰って寝ようかな」と思ってしまったのだけれど仕事をし始めたらできてしまった。なぜできてしまうのだろう? これは私にとって永遠のテーマとなりつつある。

今日は夜に宍粟市国際交流協会が開く、市内の外国人の方と親睦を深めるお茶ットルームがあるとかで昼休みに自分なりに話したいことを煮詰めた。発達障害のことを話そうか、これから行われるという英会話教室の話をしようか……その会合では英語で話すことになるので、私は結局そうした英語を使う機会で自分を表現することが好きなんだなと思った。仕事をしていると英語を使う機会はめったにないので、必然的に私の英語は評価されない。でも他の機会でならこうして私の英語が活きる時が来る。それも人生なのかもしれないなあ、と思ってしまった。ジョブコーチの方が私の英語を評価して下さっているのでまた風向きは変わるかもしれないのだけれど。

とはいえ、計画を煮詰めて「このことも喋ろう」と考えすぎるのも考えものではある。コミュニケーションは音楽におけるジャムセッションと同じでその場になってみないとわからないことが山ほどある。発達障害の人間が一番困ることの1つはそうした土壇場での先の読めないコミュニケーションなのだけれど、それに関しては私も発達障害を考える自助グループや他のグループでのミーティングに参加するようになって「場数を踏む」経験をしたのである程度なら何とかなるかな、とも思う。この「何とかなる」がクセモノなのだ。なぜ「何とかなる」のだろう。根拠なんてない。ただ、仕事も私生活も自分では自覚していない能力が発揮されて「何とかなる」のだった……。

夜、そのお茶ットルームに参加する。市内の中学校に勤める英語教師の方のプレゼンテーションと、今回のメインイベントである水引を作る時間を楽しむ。特に水引は私のような不器用極まりない男にはなかなか難しかった。時間を忘れて熱中してしまう。講師の方の鮮やかな手の動きを見せてもらい、どの世界でもエキスパートはいるものだと唸る。楽しいひと時だった。帰った後、何だか頭が発熱したような感じがしたので眠ってしまう。単に日頃の睡眠不足が祟ったのだろうと思う。もう若くないのである……今年で私も48歳。脂っこいものは控えて日々「腹八分目」の生活を心がけないといけないのだな、と思った。

2023/01/16 BGM: U2 - Where The Streets Have No Name

今日は休みだった。朝、総合病院に行く。そこでドクターと会って自分自身の問題を話す。夜眠れないことを打ち明けると、散歩やストレッチを薦められる。身体を動かすことを始めてもいいのかもしれないと思った。その後薬をもらって近所のイオンに行き、そこで中島義道『哲学の教科書』を読む。改めて読み直すとこの本が今の私自身の関心のある「自分とは何か」「言葉とは何か」といった問題に相当に肉迫していることに気づく。昔この本を読み耽ったことがあるので、知らず知らずのうちに影響されていたのかもしれない。私にとってはこの本が語るように、今日が昨日になり今が過去になること自体が不思議なことだ。もちろん私が考えたところでその謎が解明されるわけもない。だが、考えることを止められそうにもない。哲学病、なのだろう。

イオンの中の未来屋書店に行き、そこで井手正和『発達障害の人には世界がどう見えるのか』という本を買う。さっそく読んでみたのだけれど、脳科学の見地から発達障害者の脳が定型発達者の脳とどう違うのか、多彩な実験を基に解明した本であり読み応えを感じる。しばしば私は、自分自身の感覚が他人にも共通の「デフォルト」なものであると信じてしまう。だがそんなことはなく、他の人は他の人の知覚を基に生きている。つまり、私たちはそれぞれまったく違う知覚の仕方で生きているということになる。そしてそれは何らおかしなことではなく、その人の「個性」に属することなのだということになるだろう。

この本では時間の感じ方についても語られている。私の体感する時間と他人の時間が違うかもしれない、と。例えば野球のエキスパート/達人の言葉として「ボールが止まって見える」というのがある。達人の時間の感じ方として、つまりひとつの時間の捉え方としてこれはリアルなものなのかもしれない。私自身は時間というものを実に短くしか捉えられず、1年後のことなど計画を立てられたことがないのだけれどその原因もこうした「時間分解能」という概念が説明するのかもしれない。そう思うと実に得難い本を読んだと思った。井手正和の他の本を読み、もっと自分自身の体感する世界や時間の感じ方をこの日記で記すことが他の発達障害者にとって参考になりうるのかもしれない、と思う。小説として書いてみようか?

夜、特に何もしたいと思えずダラダラと過ごす。そんな時はロクなことを考えられない。フェルナンド・ペソア『不安の書』を読み返しながら、こうして何度も読んだ本を改めて読み返す人生はいかがなものかとも思う。読んだことのない本はまだまだある。トルストイディケンズバルザック……だが、そうした本を読みたいとも思えない。図書館が開いたらラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』を読みたいとも思い、結局自分は何者にもなれなくても読みたいものを読み、生きたいように生き、極めて要領の悪い、実にコストパフォーマンスの悪い人生を生きるのだなと思ってしまった。ああ、それも人生。