跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/01/15 BGM: pupa - Creaks

朝、ふと見たニュースに言葉を失う。高橋幸宏が亡くなったとのこと。私は高橋幸宏のソロや多彩なプロジェクトは追えていなくてせいぜいYMOを聴き込んだだけという程度で、つまりは「にわか」に過ぎない。だけどそのYMOを久しぶりに聴き返しながら、改めて彼らが​絶妙な才能の​ぶつかり合いの中にあったことを再確認する。私はYMOは日本のビートルズと呼ばれるに相応しいと思っている。ワールドワイドに名高い坂本龍一アンビエントサウンドにおいて深遠さを見せつける細野晴臣とタメを張れるポップセンスを発揮した高橋幸宏の偉大さを私はいつまでも記憶するだろう。あのソフトな声も含めて。合掌。

今日は発達障害を考えるミーティングだった。ZOOMをアップデートして参加する(パソコンのスペックが追いつかなくなってきたようだ。貧乏は辛い)。私は木曜日に行った別のミーティングでのプレゼンテーションである「タイパ」について話した。参加者から活発な意見が出てくる。堀江貴文的な「修業は時間の無駄」という意見に対して、「それも一理ある」という側面と「そこまで言うか」という側面の両端から論じなければならない(つまり、一概に正しいとも間違っているとも言えない)という意見をもらった。それはその通りなので、自分の意見が「タイパ」にとらわれじっくり考える時間と手間を欠く短絡的なものではなかったかと反省した。複眼思考(山崎浩一)を大事にしたい。

そのミーティングが終わったあと、時間が空いたので図書館に行きFacebookで薦められた木村敏の本などを借りる。そして自分だけの時間を楽しむ。下條信輔『サブリミナル・マインド』を読み認知的不協和理論について学ぶ。自分の中に相矛盾する意見を持つことができず、自己正当化に走ってしまう心理。例えば「酒の呑み過ぎは体を壊す」「酒を止めなければ」という心理と「酒は百薬の長」という2つの見解はどこかでぶつかる。ならば必然的にどっちかが勝つ。私自身数え切れないほどこの矛盾する心理にぶつかり、無理やり「酒は健康にいいんだ」と思い込もうとしたなと苦い記憶を反芻する。

下條信輔の本は実に多彩な実験データを引き、そこから私たちの認知の複雑さや(敢えて言えば)曖昧さを引き出す。私は自分自身を1個の人格/1個の主観として捉えている。だが、私自身が本当に私のことを一番良くわかっていると言えるだろうか。記憶や知覚は間違えたり嘘をついたりすることがある。あるいはタイトルにある「サブリミナル」効果によって騙されることもある。私自身、自分の世界の捉え方が他人と違いうる可能性について考えさせられる。この思索を突き詰めていくと「自分が見ている赤と他人の赤との違いは何だろうか」という「クオリア」の話題に至りうるのかな、とも思う。そこからウィトゲンシュタインの哲学まではあと一歩。「つながってきた!」と思い嬉しくなる。

*先日の小坂井敏晶『神の亡霊』について書いた記述(2023/01/13)に小坂井敏晶氏自身からコメントをいただいた。私自身の読みが粗かったかと思う。それについては恥じ、読み返して考え直したい(刺激的なコメントだったので、そのことと「二人称の死」問題について改めてこの日記で取り上げたいと思っている)。ありがとうございました。

2023/01/14 BGM: 新居昭乃 - 覚醒都市

今日は早番だった。今朝、ふと「自分は何者なんだろう」と考えてしまった。会社に行けば私は従業員として扱われる。会社と契約を交わして、会社のデータベース(?)に1人の構成員として登録され、私の働きに応じて給与が支払われる。周囲も私のことを1人の従業員として扱う。おそらくは変わり者の人間、よくわからない人間として……だが、会社を離れた付き合いの中では私はまた別の人間として扱われる。そうした付き合いの温度差があまりにも激しいので、私は本当に同じ国の同じ文化圏に住んでいると言えるのだろうかと眩暈すら感じる。同じ言葉をしゃべっているが違う価値基準、違うオペレーションシステムに則って動いているのではないか……いや、その通りなのかもしれない。

私は誰なのだろう? 私とは(かなり極論を書くと)この世の中に数多といる人間たちが織り成すネットワークの中の、1つの結節点である。ちょうど私が持っているパソコンやスマートフォンがインターネットというネットワークの中での結節点であるのと同じだ。私はここにいる。自分の意志で、自分の思考回路から生み出される考えをこうして書き記している。だが、その私の考えは他人抜きには考えられない。他人から為された意地悪なことや親切なことが私の考えの中に織り込まれ、それがこうした意見となって実を結ぶ。私とはかくも流動的なものだ。そこに「私」なる固定的なものは存在しないのかもしれない?

私はずっといじめに遭ったりして、他人を否定して生きていた時期が長かった。人とベタベタ仲良くするのは「つるむ」ことだと信じてさえいた。いや、もちろんこれは今になってみれば「アホだなぁ」「ガキだ」で終わる話である。モリッシージョニー・マーと出会って才能を開花させたように、あるいはジョンとポールの関係のように他人が触媒となって花開く才能というのがありうるのかもしれないとも思う。私の場合、今のつながりがなければ英語で何かを書くということもしないで終わっていただろう。一生世の中に絶望して、そのくせ「自分には絶対に才能があるのだから、認めない世の中がおかしい」と信じ込んで生きてそして終わったはずだ。そして容易に知られるように、この考え方は「世の中がおかしいということは、私がそれだけ正常だということだ」という短絡的な思考をもたらすのである……。

夜、オリヴァー・サックス『意識の川をゆく』を読む。温かい人柄が伝わってくるような、息遣いまで聞こえてくるようなヒューマン・タッチのエッセイだと思った。特に興味を惹かれたのは、私たちの記憶がしばしば現実にあったことから遊離して私たちの中にしまわれ、事務的に言えば「嘘をつく」ことさえあるというエピソードだ。だが、そうした事実があるとしても「事実ではなく、認識された世界こそ真実だ」「人の数だけ真実がある」と考えるのも抵抗がある。そうして居直ってしまうと失われるものというのもあるのだろう、と。今、この瞬間を精一杯生きてそのナマの経験を私の中に取り入れること。そうすると過去は意味あるものに書き直される。そうした生き方を目指したいと思った。

2023/01/13 BGM: 詩人の血 - バレンタイン

今日は遅番だった。朝、下條信輔『意識とは何だろうか』を読む。とても深い本だ。古い本ではあるが、今なお読むに耐えるいろいろな問題を提起している1冊で、今回の読書で気になったのは日本でも話題になった抗鬱剤プロザックについて触れられているところだった。日頃から抗鬱剤を飲んで精神の調子を「アゲ」ることは果たして幸せなことなのかどうか……私自身大学生の頃から今に至るまでクリニックに通って眠剤などをもらっているので、プロザックを頭ごなしに否定することはできない。だが、そうした薬で始終「アゲ」続けの暮らしを送ることにもためらいがある。これは「薬」を「酒」「麻薬」に置き換えたら問題が見えやすくなるかもしれない。乱暴な議論だろうか?

私が精神科に通うようになったのは鶴見済が発表した『人格改造マニュアル』を読んでからだった。精神科が決して異常な場所ではなく、私たちが幸福な暮らしを送るために気軽に利用できる場所であることを綴っていたのを読んで、それで行ってみる気になった。確かに薬は私を助けてくれている。それは疑いようにない事実だ。しかし、薬で落ち込んだ精神を立て直してもそれは一時しのぎでしかないというのもまた事実である。私が自分自身の問題と本腰を入れて向き合って、そして自分を変えていく(まさに「人格改造」だ)ことによってしか幸せになれないというのも事実ではないかと思う。

一時期の私にとって、酒はなくてはならないものだった。そして私はそんな風に酒浸りになって生きてしまっている自分自身をずいぶん責めた。一方では酒で死ねたらこんなにいい死に方はないとも思い、酒以外に自分の生き甲斐なんてものはありえないとも思った。だが、それは私に巣食うアルコール依存症という疾患が言わせたことであって私の本心ではなかった(このあたりはもっと繊細な説明が必要なのだが)。今、くたびれ果てた内蔵のことを思えばその若い頃の酒浸りの生活を後悔しないでもない。その意味では酒浸りの日々が幸せだったとは思わない。それと同じことがプロザックと共にある人生にも言えないだろうか。

今日はジョブコーチの方とのミーティングがあった日だった。職場の問題点をあぶり出し、整理する。職場では私は時折孤立感を覚えることがある。発達障害者である自分はこの会社の中で結局異端でしかない……だが、その異端である自分の特性こそが役に立っているという事実もある。自分が為している貢献について今一度振り返ることができ、自信を持つことができた。幸せとは「し合わせ」、つまり何かと何かが合わさった状態を意味すると書くと学んだ。私もこうして他者と「合わせ」ることができている、「コネクト」することができている。そう思うと自分の幸せをありがたく思われる。

2023/01/12 BGM: b-flower - Both Sides, Now

今日は休みだった。古田徹也『いつもの言葉を哲学する』を読む。この本は「ぼくらの時代の文章読本」として読めると思った。「やさしい日本語」、つまり主に外国人向けに記されたわかりやすい日本語について書かれたところが目を引く。私の知り合いにも日本語教師の方が何人かおられるから、その人たちにもお勧めしたい本だと思ったのだ。古田はこの本で、「やさしい日本語」の意義を認めた上でそれがジョージ・オーウェル1984年』に登場する「ニュースピーク」になりうる可能性について記している。「わかりやすく書き直された言葉」が孕む暴力性について古田は考察する。これはなかなか深いと唸った。

「ニュースピーク」をつまり、「多様な/オルタナティブな書き方」を排した「暴力的なほどわかりやすい言葉」「誤読の余地がないほどシンプルな言葉」と理解すると(ただし、私は不勉強にも『1984年』を読んでいないので誤解があればご指摘下さい)、その「ニュースピーク」と「やさしい日本語」の相違は見えてくる。「やさしい日本語」は決して「これが絶対的な書き方」「こう書かねばならない」と他を排除するものではないからだ。私のこの文章のような悪文にも存在意義があることを認めた上で、なお伝わるように「オルタナティブな書き方」な試みとして存在するのが「やさしい日本語」だと理解する。

「やさしい日本語」は、ゆえに日本語を活性化させる斬新さ/新鮮さを備えていると言えないだろうか。もちろんそれが古田が懸念するように他の書き方を排除する方向に働いてはまずいわけだが、私はそんな危険性を感じない。ただ、だから古田がナンセンスとかそんなことを言いたいわけではなく、古田が懸念する現象は、別の形での粗暴なわかりやすさの中に表れていると思う。例えば逐一(神経症的にさえ感じさせられる)テレビ番組やYouTube動画などで登場するテロップ。あるいはカタカナ語の氾濫(これは古田も別の節を設けて論じている)。そのあたりを私なりに考えてみたいと思わされた。古田の他の本と同じく好著だと思う。

夜、オンラインミーティングに参加する。そこで私が巷で使われている「タイムパフォーマンス」「タイパ」という言葉とミヒャエル・エンデ『モモ』について話した。時間を節約してムダを省くことを追求する姿勢を意味する「タイパ」という言葉だが、私の人生においてもムダはあったわけで(「大学時代の4年間を遊んで暮らした」「酒に溺れて金と時間を浪費した」など)、それを後悔しても始まらない……『モモ』に登場する「時間貯蓄銀行」の人間なら「実にムダだ」と私をなじるかもしれない。だが、その「ムダ」をこの身体を通して身に沁みる形で体験しないとわからなかったこともある。そう考えれば今の私にとって「ムダ」ではない。それを再確認することができて、楽しいひと時だった。

2023/01/11 BGM: Cutemen - Love Deeep Inside

今日は遅番だった。朝、小坂井敏晶『神の亡霊』を少し読む。すこぶる刺激的な本だ。彼は、私たちは自分の死を選ぶことができると書いている。死にたければ死ねばいい、と。これは危険な議論だと思う。私は「死にたい」と願う人、死の自己決定を望む人に対して「死ねばいい」とは言えない。その自己決定をその人が後悔しないとは言い切れないからだ。生きていれば過去に下した決定を後悔することは山ほどある。間違いは誰もが犯しうる。それが人間の人生というものだ。ゆえに、死を望む人に向けられるべきは別の言葉だとも思った。こうした議論に私を差し向けてくれたという意味で、皮肉など交えず小坂井の本を良書だと思う。

「生きていればいいこともある」という言葉の意味について考える。日本には「人生万事塞翁が馬」ということわざがある。私もかつてクリニックの医師に「きっといいことあります」と言われたっけ。私たちの人生はそうした「運」「縁」が重要な役割を果たしているのだろうか。絶望的な状況に置かれた人に、「運次第」で人生は開けると語りかけること……それは残酷ではないだろうか。運次第で人生が好転するか暗転したままか決まるのなら、人生というものは相当にナンセンスなものではないだろうか。そんなことを考えた。

チェスタトンだったか、「奇跡に関して最も信じがたいことは、奇跡は起こるということだ」と喝破したのは。私の人生を振り返ってみても40の歳に奇跡的な出会いがあり、そこから今のような英語でメモを書いたり発達障害と向き合ったりするような人生が始まった。その意味では人生は「ガチャ」で決まるところがあるとも思う。人事を尽くして天命を待つ、ということわざもある。運次第でどうにでもなる人生だからこそ、私は運に頼らずに自助努力を尽くしたい、とも思う。この矛盾を生きることが、すなわち人生を生きることなのかなとも思う。

「空気は読むものではなく、吸うものだ」とある方の言葉だ。私も空気を読めなくて苦労している身なので、この言葉が身に沁みる。私は結局雑談もこなせない、変人としての人生を生きるしかない。だが、ならばその道を極めて集団の中でファーストペンギンとして生きるまでだ。ナンバーガールの歌詞のように「自力を信じて」。哲学の徒として私は生きているので、あらゆることを懐疑的に見る癖がついてしまっているがゆえにこれは難しい。だが、なぜかうまくいってしまうのが人生、奇跡が起きてしまうがゆえに価値があるのが人生でもある。人生は面白い。

2023/01/10 BGM: Radiohead - My Iron Lung

ふと今日、「やりたいことをやりなさい」という言葉について考えてしまった。恐らく読んでいた小坂井敏晶の本の影響によるものだろう。「やりたいこと」……私はずっと自分の「やりたいこと」として書くことを選んできた。リルケカフカに倣って、半ば祈るように書くことを続けてきた。ある時期までは(いつも書いているが)それで生活を支えられればと思っていた。でも、もしそんな夢が叶うことがないとするなら、自分は書くことを諦めるだろうかとも思った。そこから出てきた答えは、恐らく自分は諦めないだろうというものだった。書くことはただそれだけで満ち足りていて、楽しい。だから一生かけて続けるだろうと思う。

その昔就職活動をしていた時、孫正義が「皆さん、夢を持ちましょう」と語りかけていたのを覚えている。その後就職活動がさっぱりうまく行かなくなって酒に溺れ始めたのもいつも書いている通りだが、そんな失意にあった自分にとってはその「夢を持ちましょう」は(相当に卑屈に聞こえると思うけれど)「強者の論理」だった。あなたは功成り名遂げた人間だからそんな風に言えるんでしょ、と。逆に言えば私はずっと自分自身を弱者であり不幸な人生の主人公と思っていたので、それゆえに自分自身を無力な若造/青二才と思い込んでいたのだった。

レディオヘッドに「プラネット・テレックス」という曲がある。どこへ行っても聞こえてくる「何もかもぶち壊しだ/どいつもこいつも壊れている」というメッセージについて語られた曲だ。私がこの曲を荒唐無稽と片付けられないのは、私自身にとっては日常生活自体が「夢を持ちましょう」というメッセージに支配されているとすら言えるのではないかと思うからだ。反感を買うのを承知で言えば、その「夢を持ちましょう」という言葉が人を追い詰め「壊して」しまうのだとするなら、それに抗ってニヒリスティックに「夢なんてない」「人生に意味なんてない」と居直る方がまだしも救いになるのではないか、とさえ思う。

夢とは、ある種呪いのように働くところがあるのかもしれない。見果てぬ夢を見続けることが現実と夢とのギャップを自覚させ、人を苦しめる。自分の限界を知らないままに夢を見ることが、いつの間にか夢に追い立てられプレッシャーとなり、うまく行かない自分の現実を惨めに思わせられ、それでもウォルト・ディズニー的な「夢は必ず叶う」という希望を捨てられず、苦しむ。だから私は自分の人生に夢や大目標といったものを設定していない。日々、小さな達成を重ねる。日記だって「1年間続ける」なんて大目標を設定したことは一度もない。その日その日書くとそれがいつの間にか大きな達成になっている。これが私の生きる道、だ。

2023/01/09 BGM: Kenji Ozawa - ラブリー

今日は遅番だった。朝、小坂井敏晶『答えのない世界を生きる』を少し読み返す。著者の波乱万丈の半生とそこから生まれたユニークな価値観について綴られた本で、私自身の過去について考えさせられる。私は今でこそこうしてのほほんと暮らしているけれど、かつては作家になりたいと夢想ばかり膨らませて、でも現実的には小説など書かずにひたすら酒に溺れていた。酒を呑むと一時的には酩酊状態に陥ることができる。何もかも忘れられる。でもシラフになるとそん無為な享楽に耽った自分に自己嫌悪を覚える。だから酒を呑む……そんなことをずっと繰り返していたっけ。

ああ……私の収入では決して安いとはいえない自己啓発セミナーの教材まで買い込んで、私は自分自身を変えよう、新しい人間になろうとあがいたものだった。結局いつも書いているように40歳をすぎて出会いがあり、私は信頼できる方々に恥を晒したり悩みを打ち明けたりすることができるようになった。そうすると、私は自分のことを愛することができるようになった。これは理屈では(今のところ)説明がつかない。自炊やその他のライフハックを学んだりして、自分自身の限界を改めて思い知りそして自分の輪郭を掴み、自分自身と腰を据えて向き合うことができるようになったのだと思う。

過去を振り返れば、決して自分はうまく生きてこられたわけではない。今でこそ英語で日記を書いたり哲学や脳科学の本を読んだりして面白おかしく生きているけれど、それにしたって何者かになるためではない。実にコスパの悪い、ムダの多い人生だ。だが小坂井敏晶の人生の回顧録を読ませてもらっていると、そうしたデタラメというかムチャクチャな人生の試行錯誤が最終的に大きな曼荼羅を描くこともあるのかもしれないな、と思わされる。学問に王道なし、とはよく聞く言葉だ。私の生き方だって、アホみたいではあるかもしれないけれどあながち間違ってはいないだろう。

今日は成人の日だった。私自身は自分が新成人になった時、式典には出ずにひたすら本を読んだか音楽を聴いたかして過ごしたのだと思う。あまりにつらかった時期だったからか、当時のことを何ひとつ思い出せない。まだ自閉症のことも知らなかった。そしてこれからどんな人生が待っているのかも。今、これからどんな出会いがありどんな人生が待っているのか、私にはまったくわからない。心がけることと言えば、軽いノリで動いてみる、ということだ。理屈をこね始めると動けなくなるので、ただ身体が望むままに動く。そうすると意識がその動きに伴って変化する。理屈はあとからついてくるものだ。とにかく動くこと、そして楽しむこと。それに徹したいと思っている。