Back To Life

Back To Reality

2021/12/03

BGM: John Lennon "Mind Games"

今朝、clubhouseでインドネシアのジュディスさんとまた話した。今年起こった重大な出来事のひとつは、こうしてジュディスさんに出会ったことだ。彼女とclubhouseで会話する中で、いつも彼女から私はこの日記の内容を褒められ、励まされたと思う。私の英語はそんなに達者なものではないと思う。改善の余地は大いにある。まして当意即妙が要求される喋りにおいては、今でもたどたどしくなってしまう。でも、彼女は注意深く耳を傾けてくれるし発達障害をわかろうとしてくれる。それが有難いと思う。来年も彼女と話すことができますように。

冬なので冬に関する小説を読みたくなり、藤沢周ブエノスアイレス午前零時』を再読した。マーティン・スコセッシの名作映画『タクシードライバー』を連想する。主人公は(多分にその知性や感受性故に)世界と折り合えず、生きづらい思いをしている。彼らは世界を眺め、そこで展開されている事象に自分も溶け込もうとするがどうしても彼らは世界とズレてしまう。そのズレを本人たちもどうすることもできず、時に狂気をこじらせる。そんな辛さがよく書かれていると思った。藤沢周を読んで今年の冬を過ごすのも悪くないかな、と思う。『箱崎ジャンクション』を読もうか。

その後マイケル・S・ガザニガ『〈わたし〉はどこにあるのか』を読み始める。講義を元にしたものらしく平易に綴られており、とても入りやすい。私たちの心というものは、脳に本部があってそこが中心となって働いているわけではない。それはインターネットが本部を持たないネットワークであるのと同じだ……ということは私の心とはネットワークである、ということになる。身体の隅々、指の一本一本に至るまで私の存在全体が心である……同じガザニガの『人間とはなにか』も読んでみたいと思わされた。もっと読み進めていこう。

Discordのとあるサーバで開催されている「アドベントカレンダー」という企画に参加することになった。私は12月8日に書くことになった。この日を選んだのはジョン・レノンの命日だからだ。ジョン・レノンについてなにか書ければと思っている。SIONという日本のシンガー・ソングライターの曲を手がかりに……私という人間の中に溜まった情報や知識を私なりにシェイクして、それを書き記す。そんなことをずっと続けている。私とはそんなプリズムに他ならないのかもしれない。ならば、私のオリジナリティとはどこにあるのだろう。

2021/12/02

BGM: 桑田佳祐「漫画ドリーム」

アントニオ・R・ダマシオ『感じる脳』を読む。この本のことは実は前々から知っていた。國分功一郎の『哲学の先生と人生の話をしよう』という本を読んだ時に國分功一郎が紹介していたのだ。だが、本格的に読んだのは今回が初めてで得るところは色々あった。私たちが「悲しい」と思うことは、実は「悲しい」という感情(ダマシオは「情動」という言葉を使っている)が先にあって、それが泣き顔などの肉体的な反応として現れてようやく「悲しい」という思いに至る、という事実が平たく説明されている。なかなか面白い。

つまり、私たちは肉体的な反応を先に作ることで思いを動かすことができる。難しい話ではなく、意図的に泣き顔や笑い顔を作ることで悲しみや喜びを自分の中に喚起させることができる、という……私が仕事場で身体を動かしている時も、仕事前はやる気なんてカケラもない。ないのだけれど、いざ手を動かし足を動かすとやる気スイッチが入ってやる気が芽生え始める。ダマシオの筆致はわかりやすく、スピノザという哲学者について触れられたところも読ませる。もっとも、スピノザは全然私にはその内実がわからない哲学者なのだけれど……。

私はそんなに理論派の人間ではない。いつも自分の中のマグマというか、煮えたぎるものに突き動かされてナンセンスなこと、アホらしいことをしている。clubhouseにのめり込んだり、小津安二郎の映画を観たり、古井由吉片岡義男の本を読んだり……最近の脳科学や意識をめぐる本の読書もそんな私の中の「情動」の為せる業であって、いつまでこの「熱」が続くかわかったものではない。発達障害の特性は異常なほどの飽きっぽさや落ち着きのなさなので、2022年になると全く違うことをしているかもしれない(『シン・エヴァンゲリオン』に感化されて農業を始めたり、というように)。

さて、年末年始は一体どんな本を読むべきだろう。ふと森敦『われ逝くもののごとく』を読むべきか、あるいは藤沢周ブエノスアイレス午前零時』を読み返すべきか、と考え始めている。仕事の方は年末年始も忙殺されることが見えている。年末年始があるようでない今の仕事を続けて20年以上……今年もカバンに本を二、三冊詰めて(読めもしないのに!)現場に赴き、そこで弁当を食べて働いて年末年始を過ごすのだろう。若い頃はフローベールよろしく年末年始を祝う風習が下らないと思っていたが、今はそんな風にひとつひとつの季節を祝う伝統が味わい深いと思っている……フローベール感情教育』を読んで年末年始というのも粋ではなかろうか。

2021/12/01

BGM: The Style Council "My Ever Changing Moods"

ジョン・R・サール『MiND』をようやく読み終える。非常に面白い本だった。心と脳の問題について基礎的な話題が抑えられており、この本から「私とはなにか」「心とはなにか」といった問いに進むことができる。もちろん一読して全てをわかったなんて言えるわけがないので再読が必要なのだが、翻訳も非常に質がよく堪能することができた。その後図書館に行き、またアントニオ・ダマシオの本などを借りる。もちろん本に書いていることをコピーするのではなく自分なりに考えないといけない(とはいえ、虚心に学ぶことが否定されるべきでもないのだが)。

山内志朗『わからないまま考える』を読む。スピノザベンヤミンなどの多彩な哲学者を縦横無尽に引きながら展開されるエッセイで、読んでいて楽しい。『エヴァ』や『天気の子』などに言及されているが、そうしたポップカルチャーの引用に見合わず筆致は誠実/堅実。人生や世界といった「わからない」ものについて「わからないまま考える」姿勢の重要さを教えてくれる。私なりの哲学とは、心の中にわだかまっているものをそのまま外に出し考え続けることではないか? そんなことを考えさせてくれた。私なりに小説を書くヒントになるかもしれない。

夜、断酒会に参加した。雪が降るかどうか不安だったのだけれど降らなかったので安心した。タイムカードのミスについて話す。断酒会で褒められ、受け容れられても翌日会社に行くとまた鼻つまみ者扱いされてしまうので、この待遇のギャップに頭がおかしくなりそうになる。今日は参加者の方の「依存症があったから、この病があったから幸せを感じることができる」という言葉が印象に残った。私もアルコール依存症なのでもうお酒は呑めない。悲しいけれど、でもこの幸せはその悲しみがあってこそなのだと思った。トレードオフ関係、というのだろうか。

12月に入った。もう今年も終わる。今年の収穫とはなんだっただろう。遠い過去や未来を見渡すのが苦手なので、半年前のことですら記憶があやふやなのが情けない。片岡義男の本にのめり込んだり、こうして脳科学の本を読み始めたり……就業支援員の制度を利用したいと思い始めたのも、たまたまインターネットで調べて見つけた市内の発達障害関連の施設に突撃訪問してのことだった。いつもいきあたりばったりで生きている。そんな生き方は今後も続くのだろう。R.E.M.が歌うように「甘美さがあとになっても残る」のだ。

2021/11/30

BGM: 高浪敬太郎「コズミック・ブルース」

今日、会社でミスをしてしまった。退勤する時に間違えて出勤スキャンを切ってしまっていたのだ。発達障害者にはよくあることだが、理由書に「うっかりミスです」なんて書けないので困ってしまう……つくづく自分の発達障害ぶりが嫌になる。思えば、会社では私はいつもトラブルメーカーである。どんなに私生活で褒めそやされても、書くものが褒められても会社では所詮は出世の見込みもない、ただの鼻つまみ者にすぎないのだった。だから正直、頭がおかしくなりそうになる。誰の言うことを信じればいいのだろう?

今朝、インドネシアのジュディスさんがclubhouseでやっている部屋に参加した。彼女は私にいつも、私のこの日記を朗読する時間をくれる。今日朗読したのは私自身の過去を語ったもので、決して明るいものにはならなかった。彼女は彼女自身の過去を語り、私がスペシャルだと励ましてくれた……ありがたいことなのは間違いないが、褒められれば褒められるほど会社での「使えないやつ」という待遇とギャップを感じてしまう。ここまで私に対する反応が異なっているのはもう、違うOSで動いているとしか言いようがない。

その「違うOS」の源泉を突き詰めれば、発達障害をどう捉えるかだろう。会社の人にとっては発達障害とは突き詰めればトラブルを招く要因としか見做しようがないのだと思う。あってはならないミスをする要因……もちろんこの発達障害がもたらすいい面もあるのだが(例えばこだわりであり、人と違うセンスである)、それさえも和を乱すものとして忌み嫌われたりもする。オリジナリティを発揮すればするほど褒められるこうした日記や発言とは異なる。一体どうしたらいいのだろう。私はただ私でありたいだけなのに……。

夜、ジョン・サールの『MiND』を読み始めた。もちろん私は素人なので専門的な学識など持ち合わせていないのだが、サールの筆致はわかりやすく私を心や意識をめぐる数奇な旅に誘導してくれる。だが、どれだけ意識についての本を読んでも「なぜ私はわたしなのか」「なぜこんな人間に生まれついてしまったのか」という謎は解けない。死ぬまでずっと解けないだろう。今日、ふと「こんな時代なのだから、マスクに落書きをする『マスクライナー』なんてものがあればいいのに」と思ってしまった。むろん衛生面で実現しないだろうが、こんなことを思いつく自分とは、こんな変な自分とは一体なんなんだ?

2021/11/29

今週のお題「あったか~い」

BGM: 佐野元春 "恋する男"

今日は遅番だった。イオンに行き、脳科学や哲学の本を読もうかと思うが集中して読めなかった。なので、ぼんやりここ最近考えていることを反芻する。なぜ女性のことを考えてしまうのか。なぜ恋を求めてしまうのか……かつて、宮台真司の本を読んでいたら恋の歴史について彼らしくシャープにまとめられていたので、それを読んで救われた気持ちになったことを思い出す。恋とは欧州の宮廷遊戯に端を発した儀礼的なものにすぎず、フィクションである……そんな理屈に救われたのだった。だが、今はこの考えに救われない自分を感じている。

人を恋することができない……私は、子どもの頃女の子にひどく嫌われた。最低、エッチ、近寄らないで。そう言われ続けた。だから女の子に近づくことができず、従って自分の中の恋する気持ちや異性に惹かれる気持ちを発露することができなかった。それは十代になってからも続いた。私は変わり者で、もっと言えば人から変態扱いされて笑われ嫌われいたので、私から誰かを愛していいと誰も教えてくれなかった。私はいつの間にか、愛することを諦めて生きようと思うようになった。その時に先に書いた「恋愛はフィクションである」という説を読んだのだ……。

二十代に差し掛かる頃、私は世界の全てを憎んで生きるようになった。当時もなにかしら物を書いていたように思うのだが、それは世界に対して挑戦状を叩きつけるような気持ちで書いていた。だから、私に相応しいのは他人からの憎しみであると思っていた。誰かが私のことを愛してくれるということも、私から誰かを愛しうるということも、ありえないと思っていた。今は違う。だが、相変わらず私は人をどう愛していいのかわからない。親切にすることはそれなりにできる。だが、それは愛なのだろうか。私は疑ってしまう。

他人からの愛……それは端的に温もりであるだろうと思う。人肌の温もりである、と。そして、その愛する人、愛してくれる人の中で自分を吐露できる喜び、癒しというのがあるのではないかと思う。いや、全ては私の想像にすぎないのだけれど、そんな風に自分を預けることができて自分自身の中に誰かがその人自身を預けてくれる。そんな心地よさを愛と呼ぶのではないだろうか。誰かに理解されること、誰かに認めてもらえること……どうしたってそんな「受容」は必要ではないか、と思う。いや、これもまた理屈のための理屈だろうか?

2021/11/28

BGM: THA BLUE HERB "未来は俺等の手の中"

グループホームの部屋の中に居ると、私は利己的な人間になる。自分さえよければいいと思って……だから怠け癖を発揮してしまう。しかし外に出て会社に行くと、そこには他人のことを考える自分が居る。会社のために、みんなのために、と考え始める。どっちが本当の自分なのだろう? ひとつ確実なのは、「みんな」にとっては私は利他的な自分しか見せていないために、そっちの「立派な」私こそが私だと思わせてしまっているということだ。私はそんなに立派ではない……だが、どちらも本当の私。私とは実に謎だ。

今朝、久しぶりにインドネシアのジュディスさんがclubhouseで開催しているルームに参加した。私の日記の一節を朗読させてもらった。ジュディスさんは私がユニークだと言ってくれた。そして「特別」だと……この「ユニーク」「特別」な側面こそ、かつて私が自己嫌悪に陥る源泉になった要素だった。自分にとってとても過剰なものだった……時代は変わる。時代は発達障害にとって、そして私にとって優しい方向に変わりつつあるように思う。だが、そんな流れに自分の全てを任せられない自分が居る。私は天の邪鬼だから……。

映画『tick, tick... BOOM! : チック、チック…ブーン!』をネットフリックスで観る。売れないアーティストの生々しい奮闘を描いたミュージカルだ。神経症的なキャラクターをアンドリュー・ガーフィールドが巧く演じていて見応えはたっぷり。年齢が30歳になることに極端に神経質になる主人公の姿に(30歳になってもなにも成し遂げていない、と苦悩するのだ)、私自身の姿を重ね合わせる。三島が逝った45歳になっても、中上健次が逝った46歳になっても、なにも成し遂げていない……もちろん私は自分の人生を生きるしかないのだが。

意識とはなんだろう、自分とはなんだろう……こんな内向きのことばかり最近は考えている。意識がなくても、ロボットやコンピュータのような存在であってもこの世に存在するのにはなんの支障も来さない……私の理解は間違っているかもしれないが、これが「哲学的ゾンビ」(チャーマーズ)と呼ばれるものだろう。私はそんなゾンビになりたかった。女性に反応するのは肉体が時折行うエラー/誤作動だと思って、ペニスを持つ自分自身を恥じて……こんなことばかり書いていても前には進めない。全てを呑み込んで前進するしかない。

2021/11/27

BGM: Rick James "Super Freak"

今日は図書館に行き、ジョン・R・サール『MiND』という本を借りた。ここ最近はずっと意識というか心について考えている。私は独り言を言う癖がある。職場でもそのことで笑われているのだけれど、自分でも止めようとしても止められないのだった。この独り言を聞いていると、自分の中にはもうひとりか2人くらい人格があるように思う。仕事中に、はっきり多重人格としてではないもののその人格が現れて独り言(?)を喋りだす。彼(?)が私の身体を動かし、私に仕事をさせる。彼を信頼すればそのまま仕事をしてくれる。

自分とはなんだろう、と考えても答えは出てこない。自分とはとらえどころのない、常に移ろうものだ。この町を流れている揖保川とはなんだろうと考える際に、その川の水をコップに汲んで取り出してもその瞬間の水質しかわからないのと同じで、私がこうやって書き続ける日記やメモはその瞬間の私しか教えてくれない。私は絶えず移ろう。だが、仕事をし始めれば私の中の人格はまた現れて「慌てて金が儲かるくらいならいくらでも慌てる! 落ち着きが大事だ」と私に話しかけてくる。この不思議……この自分とは、本当に一体なんなのだろう。

この日記を読む人の中にはシリアスな人も居るのでこういう話題は忌避すべきだと思うのだが、私の中にはエッチなことを考える人格も居る。すれ違った女性のお尻の形がエッチだなとか、そんなことを私だって考えることもある。だが、そんな自分だけが自分ではない。グループホームの部屋の中で「働きたくない病」を発揮して寝転んでスナック菓子をボリボリ食べている自分も居るし、映画を見て真剣に考え事をする自分も居る。仕事場の自分……一体自分は何人居るのだろう。でも、みんなこの私の中で繋がっているようにも思う。自分とはかくも多面的だ。

夜、久々に『リトル・ミス・サンシャイン』という映画を観た。あまり前のめりになって観られなかった。ツッコミどころが多くストーリー展開ももう少し工夫が必要だと思ったからだ。だが、「負け組」について考える機会をもらえたことは収穫だった。「勝ち馬/負け組」。いつからこの言葉で人は分離されるようになったのだろう。私は負け組の中でも最底辺かもしれないが、しかし好きなことをやれているし幸せであるとも思う。こんな自分の哲学が生まれるきっかけはなんだったのか……こんな風に安穏としていられる自分はどうやってできあがったのだろう?