跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/03/03 BGM: Hiroshi Takano - 目覚めの三月

今日は遅番だった。今日は天気も良い。朝、いつものようにつらい気持ちになったのだけれどそんな気分に引きずられずに淡々とルーティンをこなすことに務める。机の上にメモパッドを置いて、フリクションペンを使って思ったことを英語で書いていく。本を読むか音楽を聞き、WhatsAppのチャットグループに自分が見つけた面白い話題や私自身のブログ記事のリンクなどを投稿する。そうして「やるべきこと」をしていれば、気持ちも自然とその作業に付随して上向いてくる。たまにはそうして自分がやっていることが虚しく思えてくることもある。いったいこんなことに何の意味があるんだろうと……それでも、多分自分は世界が終わる日が来たとしてもこうしたルーティンを続けるのだろうな、と思う。それはでも何ら美しい理想に準じてというわけではなく、そうしないと気が済まないというだけの理由なのだけれど。

今日読んだ本はピーター・バラカン『ラジオのこちら側で』だ。日本には優れた言葉がある。「人に歴史あり」というものだ。この本ではピーター・バラカンがラジオのDJなどの活動を通して日本の音楽文化にどう影響を及ぼしてきたか、どう音楽文化を変えてきたかが語られている。読みながら、彼がブレずに一貫して音楽の紹介者として活動してきたその凄味について考えさせられる。私はここまでブレずに生き続けることができるだろうか、などと考えてしまった。私の場合、十代の頃に村上春樹と出会って以来ずっと書くことに理想を燃やして生きていたという来歴はあるといえばあるのだけれど、それでもいろいろ迷走した時期もあるし今だってずっと暗中模索の状態で生きているようなものだ。

そのピーター・バラカンの本で面白い話題を見つけた。日本の文化と海外(英語圏)の文化の相違の話になる。ピーター・バラカンが英語でDJを務める時、ついつい政治や国際問題などのホットでシリアスな話題を語ってしまうというものだ。その指摘から、私自身の経験について考えた。私も海外の友だちとDiscordやWhatsAppで語っていると自分の不勉強を棚に上げて政治などの話をしてしまいやすい。日本だとそうした政治問題について冷静に/ジェントルに語れるステージに立つのが難しいように思う。いや、Twitterで政治問題について語ることも不可能ではない。だが「ジェントルに」語るという意味ではTwitterは荒れやすいとも思う。お互いが叩き合い・つぶし合いに陥ることなく相手を尊重して意見を述べるということは難しいものだ。

どうしてそんな違いが生まれるのだろう。そんなことを考えていたら仕事が始まる時間になってしまった。日本のメインストリームで政治に切り込んだプロテスト・ソングがなかなかヒットチャートに上らないということも上述した現象と関係あるように思う。海外のU2ブルース・スプリングスティーンのようなミュージシャンは日本に居るだろうか、と。もっとも、だからといってただちに「これだから日本は」などと短絡的に考えるのも間違っていると思う。皮肉ではなく、そうした奥ゆかしい態度も日本の美徳でありうるだろう。何でもかんでも海外を猿真似すればいいというものではなく、日本には日本の価値観がありその価値観に基づいたプロテスト・ソングやラブ・ソングを歌えばいいのだと思う。私はMr.Childrenだってスピッツだって好きだ。グランジブリットポップに触れるのと同じ感覚でそうしたJ-POPに親しむ。これでいいのだ!