
けっきょく全ての問題は、ぼくが「ずれ」ていることに始まりそこで終わるのだろうか、と今日は考えた。なんだか自意識過剰な話になるけれど、でもたとえばぼくが妙に心惹かれる作家たちについて思いを馳せると(高橋源一郎、村上春樹、安部公房、多和田葉子、吉田知子、そしてポール・オースターなどなど)彼らのもののとらえ方が「ずれ」を起こしていてその結果まったくもって不条理な世界を展開させていることに思い当たる。ぼくは彼ら・彼女たちのインタビューをまめに読んだわけではないので意図はまったくわからないけれど、彼ら自身はたぶんに世界を風刺する意図というより「あくまで自分から世界はこう見える」と語っているような、そんな感じを受ける。
その「ずれ」は、なにもまったくもって世界の矮小さ・卑小さを軽々とはみ出してしまうようなアウトサイダー・アートのようなものではない(と思う)。いっけんすると『さようなら、ギャングたち』も『羊をめぐる冒険』も普通の小説の枠にハマったような、童話・寓話的な語り口の中で主人公たちがロマンスを楽しみ喪失に傷つくという話だ。ただ、そうした小説の定型に則っていながら細部において彼らの語り口はどこか「ずれ」ていて、その「ずれ」が(たとえば「死なないギャングたち」や「星形を背負った羊」という要素に代表されるかたちで)現れるのかもしれない。
もちろんそうした「ずれ」は、少なくとも普通の小説(でも、それはいったいどんな小説だろう)を受け容れる人たちからすると許せないものかもしれない。彼らがしばしば前衛あるいはポップの文脈で語られ得ることとも関係があるのだろう。話がどんどん迂遠になっているので自分のことに話を戻すと、もちろん彼らをそのまま模倣することはむずかしいが(彼らがあらかたやり尽くした表現を二番煎じ式にやることは出来ない。モラルの問題もあるし、ぼくの脂質においてもそんな才能はない)、ともあれ彼らに倣って「自分の目から見たものを『忠実に』作成してみる」ということは出来るのではないかと最近は考えるようになった。
今日は6時頃起きて、それで朝活の一環としてInktoberに捧げる絵を描いた。早いものでこのInktoberも11日目になる。今日のテーマは「rescue(いわゆる『レスキュー』『救出』)」というものなので、ぼく自身が心に浮かんだものをありのままに描いた。ただ、グロテスクな絵になってしまったことを恥じてしまう。その後シャワールームにて熱めのお湯でシャワーを浴びて、昨日着ていた服と下着を洗濯した後に7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加する。今日は日曜日なので「フリーカンバセーション」、つまり自由なトピックで話をした。
ブレイクアウトルームにはぼくを入れて4人の方々が参加したのだけれど、どの方の英語もすばらしい。お話を聞かせてもらうと、やはり仕事で英語を使う(使わざるを得ない)環境に置かれていたり国際的に活躍されていたりする方々が主だった。ぼくの場合は仕事で英語を使うことはめったになく、それどころか私生活でも(日本にいればめずらしくないが)英語を使うことなんて皆無に等しい。なので、このミーティングを通して知らない方々の世界に触れられるというのは刺激になる。ぼくのInktoberの絵も紹介することが出来たし、楽しいひと時だった。
その後、朝食を食べた後にグループホーム本家におもむく。そこでまず、先日引き出していた給金をお渡しし封筒に分類していく。ぼく自身はなさけないことに、自分自身で金銭を管理することが出来ない。だから「これは利用料」「これは通院費」と封筒に分けていって金銭を仕分けする作業が必要となる。それが終わると最近のトピックについて話す段階になり、ぼくがノートブックをお見せしたりして話は終わった。その後、図書館に行く。目当てはショーン・タンの絵本『アライバル』だったのだけれど、ほかに本棚を見ているとスティーヴン・ミルハウザーの名が目に入って懐かしくなりそのミルハウザー『ナイフ投げ師』やブライアン・エヴンソン『遁走状態』も借りてしまった。
それから自部屋に戻って昼食を摂る。そして、今日は午後は特にやることもないので近所のブックカフェに行ってみたら休みだった。しょうがないので市役所前のカフェに寄ってそこで漫画を描く。それが終わると自室にまた戻り、ミルハウザー『ナイフ投げ師』を読む。柴田元幸さんの端正な(クセがない、しかし乱れもない)訳文に惹かれて読みふけってしまう。そうしていると居ても立っても居られず、となり町の図書館でミルハウザーの短編集を予約してしまった。それからまた『ナイフ投げ師』に戻る。
思えばミルハウザーの作品はこれまで『バーナム博物館』など読んできたのだけれど、冒頭で書いた「ずれ」というキーワードはミルハウザーの作品にもあてはまるように思う。人智を超えた次元の芸術やあるいは世界に存在する超常現象が人間を翻弄するというのが作者の十八番とする図式だが、ミルハウザーの場合そうした「ずれ」は世界にパニックを起こすような大々的なものとしては現れていない印象を受ける。いや、読み返してみないとわからないので断言は出来ないが、ぼくの記憶では彼の世界は「まっとうに語られるいびつな世界」なのだ(逆ではない。「いびつに語ろう」という意図はないだろう)。
昨日この日記で書いたショーン・タンの絵本やあるいは佐々木マキ『うみべのまち』にしても、あるいは10代の頃にむさぼり読んだ榎本俊二『ゴールデンラッキー』にしても「ずれ」が奇妙なひずみをもたらしてファニーな世界を作り上げていたように思った。今日はそんな感じで子どもの頃のことなどを思い返させてもらった。ここから考えを広げていくとするとたとえば『世にも奇妙な物語』や黒沢清の映画などに行き着くのかもしれない。
実を言うと最近になって、こうして「自分のルーツとは」といったことを考えるようになった。いま流行っているものがなんなのかぼくにはまったくわからないし、仮に「異世界モノ」が流行っていると仮定しても自分の好みには合わないので描けるわけもないだろう。それより自分が満足行くものを描きたいという気持ちが強まっている。いま、ぼくはDreamcoreやGloomcoreといった音楽を聴いているのだけれどこの音楽にそぐうなにかを表現出来たら……まあ、焦ることはないと自分に言い聞かせる。