今朝、4時頃目が覚める。それで今日はさすがになにも出てこないだろうと思ってなかばあきらめつつ散文詩「さよなら王国」を書きはじめたのだけれど、吉田健一か夏目漱石について書いてみたらどうなるだろうと思って後者の『硝子戸の中』という小品を題材に書いてみたらこれがうまく行った。ただ、それ相応の心理的負荷がかかったのもたしかでこれ以上のことは無理に散文詩としては書かないほうがいいのではないかと思いはじめた。なにはともあれ、書き上げてしまいその後は二度寝をした。今日は遅番なので、すこしばかり寝過ごしても大勢に変化はないだろうと思ったのだ。すると今度は朝8時をまわって目が覚めてしまい、もう英会話のZOOMミーティングには間に合わない。なのであきらめてシャワーを浴びて洗濯機を回す段取りに入った。
朝食を摂った後、バイクを飛ばしてとなり町の図書館に行く。そこで開館時間に入って長谷川郁夫が記した『吉田健一』(ぼくが尊敬する批評家・吉田健一の評伝)とポール・オースター『4321』を借りる。図書館のある建物には休憩所もあって、そこでしばし英語でメモを書く。今日あったことなどを英語で洗い出していき、その後持っていた本を読もうとするもうまく行かない。ぜんぜん集中できないのであきらめて、そして建物を出てこちらの町に帰ってきた……いや、正確にはメモを書くかたわらAIとの対話も欠かさなかったのだけど。
こちらに戻ってきて、まずはイオンに行きそこで買い物をする。考えがまとまらないならいっそのことなにも考えないのも手かもしれないと思い(いや、読みたい本はあった。熊野純彦のレヴィナス論やそれこそ『硝子戸の中』も読み返すべきかと思っていた。でも頭に入らなかったのだ)イオンの中にある未来屋書店に行く。そこで『CNN English Express』の最新号を買う。この雑誌、特集がすこぶるおもしろそうなので先月号も買ったのだけどなさけないことになかなかページを開けず「宝の持ち腐れ」と化してしまっていた。なのでこれを機に「リベンジ(復讐)」を果たしたい、とぼくの中の謎理論が発動してしまったのだった。
それで読んでみるも、やはりというか手ごわい。たった1ページ読んだだけなのにひるんでしまって「この英語の域に達するためにリスニングもスピーキングもがんばらないといけないんだな」と怖気づきそうになる。ただ、これもまた「なにはともあれ」が発動する話になるが、なんにせよ1ページ読んだことはたしかなので、これを皮切りにもっと読み進めて行きたい(おおげさになるが「生活のなかにこの雑誌を取り入れていきたい」)と思ったりもしたのだった。そう言えば、年始の抱負の「BBCの『6 Minute English』でリスニングを鍛える」というものもすっかりサボってしまっている。ここでふんどしを締めなおすべきかもしれないとも思った。
その後、昼になり九州に住む友だちとすこしWhatsAppでメッセージをやり取りする。おもな話題となったのは衆院選についてで、ぼくたちにとってがっかりする結果になったことはたしかでそれは意見が一致した。ただ、ぼく個人・単独の意見を言わせてもらえばむしろ「その後」の内田樹のコメントのほうがよほどなんというか「罪深い」とさえ思わせられる。「底辺」に届く言葉を編めなかった、という言葉。いったいその言葉自体が「誰に」届くというのか。けっきょくはそれこそおなじ「リベラル」同士の傷の舐め合いで終わるのではないか(ブレイディみかこみたいな「地べた」を代表してきた書き手はこの言葉にどう応答するのだろう?)。そんなことを思った。いや、だからといって彼をヒステリックに叩く風潮も嫌いだが。
2時より仕事に入る。仕事中、昨日から考えていたことがらをまた考えはじめる。過去、ぼくは本ばかり読んで過ごした時期があった。別の言い方をすればいじめに遭ったり孤立したりしたせいで人との付き合いを極端なまでに削ぎ落として、本のなかに逃げ込もうとしたのだった。人間は話すことをコロコロ変える。昨日までぼくとニコニコ話していた子が、次の日(誰かに入れ知恵されたからか)そっぽを向くなんてことも起きる。でも、本は裏切らない。だから本の内容だけをせっせと摂取して自分だけの奇怪なロジックを編んで悦に入った高校生活を送った。
それはまあ、ありふれた話だろう。それからおとなになってぼくもほんとうに信頼できる人たちと交わるようになり、人はそんなにかんたんに・コロコロと態度を変えて裏切るようなものではないことを敬虔から学び、人のぬくもりも知った。ただ、そうなるとそれまで「人間は的だ。本は裏切らない」もしくは「この組織(職場や地域など)に属する他人はおしなべてバカでクズだ。やつらは敵だ」と信じ込んで生きてきた自分の生き方――ひどく世界を単純化することで「護身」し、防衛しようとつとめた生き方――をゆるめなければならなくなる。それはひじょうにきつい。そんなことを考えると軽いアイデンティティ・クライシスを感じた。
夕方になり、休み時間になったので休憩所に行きそこでしばし休む。イヤフォンでポリスの「サハラ砂漠でお茶を(Tea In The Sahara)」という曲を聴きつつ、AIと話をする。やはりアイデンティティ・クライシスからはなかなか抜けられず、思えばAIにたいして打ち込んでいるプロンプトはぼく自身が発したものだからぼくは自分で自分の首を絞めているのか、いやこれもAIという集合知の答えにしたがっていると言えるのか(他者性と向き合っているのか)とあれこれ考えた。答えは出ない。今日はAIの答えに「圧(私の質問に答えなさい、というたぐいの圧)」を感じた日だった。もちろんChatGPTにしたってGeminiにしたって、Grokにしたってやめることはかんたんだが……しかし同時になかなか抜け出せない「沼」にハマっている自分がいることも自覚する。
夜、前に英語を教わったALTの先生とばったりお会いする。そこで英語であれこれ話し込む(先生はきわめてノリの良い方だったので、ぼくの英語にもきさくにノッてくださった)。するといくぶんか自分の心が軽くなったのを感じた。英語を話すことはぼく自身の凝り固まった思考を相対化・俯瞰するメカニズムがはたらくようで、ひらたく言えば自分の考えがくずれる楽しみがある。それで、もっと英語を学びたいという気持ちが強まった。こんどは英語でChatGPTなどにプロンプトを打ち込むのはどうだろうか、とも考えてしまった……そして9時、仕事が終わった。
