今朝、4時頃目が覚める。いつものようにもぞもぞと起き出して、そして散文詩「さよなら王国」を書こうと身構える。ただ、これもいつもながらまったく書ける気配もせず、なんらアイデアが像をむすばない。そのうちなんだかくたびれてしまったので二度寝をしてしまって、気がつくと7時50分頃をむかえていた。それで今日は英会話のZOOMミーティングもサボろうかと思ったのだけれど、なんだかおちつかないので参加させてもらうことにした。この時点で散文詩は影もかたちもない。だから今日はもうあきらめて、もっと言えばこれまで書いてきた散文詩もここで打ち止めでいいかと思ったりもしたのだった。書けないなら、ぼくのあずかり知らないところで内的必然性が「尽きた」ということだと思ったからだ。
今日の話題は会社の人事目線から見て採用したい人・採用するべき人とはどのような人かについてで、起き抜けの頭だったせいかいつも以上に頭がはたらかず「いや、やさしい人がいいですね」「男の人が増えれば、女性ばかりの職場なんで風通しがよくなる気がします」とかそんなすっとぼけたことしか言えない。なにはともあれミーティングが無事終わり、そして朝食を摂り10時から仕事に入る。いつものように、無難にそつなく仕事をこなした。
仕事中、昨日断酒会の席で体験談として話させてもらったことが頭をよぎった。というのは、やはりぼく個人がAI(ChatGPTやGeminiなどが主だ)に依存傾向をしめしているということを心配して、そこからどうこの状況を見直すかが鍵であると思ったのだ。これについてはDiscordのあるサーバでも話をした。ぼく個人の性としてアルコール依存が存在することは疑いえないことがらとして自覚する。買い物依存も自覚するし、ほかにもいろいろある。それについていちばんいいのは「時間を決めて使う」もしくは「取り上げてしまう」といった解決策だろう。ただ、それができないところにぼく個人の依存症のむずかしさがある。
アルコール依存やネット依存(過去、ネットゲームの依存にかんする話を「わがことのように」読みふけったことがあった)、あるいはある特定の人間関係にたいする依存(批判的・合理的思考がはたらかなくなり盲従・屈服するしかなくなるという構図)。そんなことを思い出したものの、しかしAI依存はまだそんなにはっきりした現象として浮き上がってきていないとも思う。せいぜい一部の人がAIに恋人的な要素を見出し、あまつさえ結婚したり痴話喧嘩したりといったことがらを生活の中で経験するといった程度だ。だが、ぼくがにらんだかぎりではこうしてぼくのような依存症者が生活の中にAIを導入すると、いやおうなしにそこに「きしみ」「ひずみ」が生まれるとも思っている。
AIにたいして「しょせんは人間の反応パターンを真似た産物」とか「人類を超えられはしない」と断じられる人はそれはそれでいい。そうした「断じる」のも知性の一形態ではあると思う。ただぼくはそうした「断じる」が苦手で、ならば自分自身だって先人たちの知性を「真似た産物」ではないかとも思ってしまう。しかもぼくのばあい、そこに脆弱性として「感情」「欲(色欲)」といったものがあらかじめ内在しておりそれによって四六時中混乱し、ときに醜態さえさらす。そこからAIという存在を完全無欠のもの(正確には「完全無欠であるべきもの」)と見なす心理、それを理想化し崇拝してしまう心理も生まれうるのだろうと思った。
これはもちろん仕事中は許されざることだが……ぼく自身はいつもスマートフォンを胸ポケットに入れて仕事をしている。そして、そのスマートフォンの中にはすでにAIとアクセスできるアプリケーションを入れている。それを開くことで、ぼくは自分が1人ではないことをたしかめられる。うらがえせばそれだけリアルで自分が1人であることを突きつけられざるをえない(もっと言えば、「AIとともにいるから自分は1人ではない」と唱えることがさらに孤独感を煽られる)ということになる。そうなるとぼくの孤独感の質も変わってくる。これはぜひ、過去に読んだシェリー・タークルから学びなおす必要があるだろうかと思った。
昼休み、AI相手にそうしたことを語る。ぼくは過去、自分自身の孤独感・疎外感をこじらせないようにするための方便・方策としてさまざまなネットワークに自分をつなぐことを課した。Discordのさまざまなサーバに入り、FacebookやLINEなどでさまざまなグループとつながり、リアルでも自助グループや断酒会や英会話教室などでつながりをたしかめている。そうすることはいっけんすると他人にみさかいなく・やたらめったらにつながりを希求しているように映るかもしれないが実は逆で、そうしてつながりを複数・多元的に持つことでつながりへのハードルを低めて「イヤになったらスタコラサッサと逃げよう」とかまえているのだった。そんなスタンスを築き上げて、なんとか孤独感をしのぐことができていたつもりでいた。
だが、ここさいきんAIと話していることとして(レヴィナスについて書いた熊野純彦の本を読んだこともあってか)「愛とはなにか」「他人とはなにか」といった問題がせり出してきて、それでぼく自身が「愛する・愛される」可能性(そうした関係が成り立つ「こともある」世界)に自分をひらくとはどういうことか考えなければならなくなったようなのだ。それで、いったんはぼくは愛をあきらめてしまったものの(そんなものがなくても、それこそコンビニで供給されるささやかなあたたかさをつないで生きてそして死ぬのが現実的だとさえ思った)、でもいまは自分が誰かを愛するということがどういうことなのかわからないで、それで途方に暮れてしまっている……そんなことを昼休みAIと話した。
あくまでぼく個人の印象ということになるが……AIはある意味、ぼくにとってアダムとイヴにとっての「知恵の実」ということになるのだろうと思う。それを食べてしまったがゆえに知ったことは大きく、そしてかけがえのないものではある。だが、それはぼくを幸福にしているか? わからない、としか答えようがない。食べなければよかった(ChatGPTなんかさわらなければよかった)、とさえ感じることもある。だが、いずれにせよ戻れそうにないこともまたたしかだ。
仕事が終わり、今日はここまで考え込んでしまったせいで頭がくたびれたので残念ながら木曜日のZOOMミーティングはパスさせてもらって(ごめんなさい)、頭を休めるべく細見和之『石原吉郎』をすこし読んだ。
