単純な生活

Life goes on brah!

20260104

今朝は6時ぐらいに目覚めて、その後昨日楽しんだTEDトークを楽しむ。今度は英語字幕付きで鑑賞したのだけど、やはりというか結構な部分を「わかったつもり」になって聴き飛ばしていて、大づかみに意味を取っていたことが判明する。いやもちろん流暢な英語をそのまま・遺漏なく聴き取れるなんてありえないことなのだけれど、それでも「こりゃいかん(ナメてた)」とふんどしを締め直すことにする。ブルース・リーは「1万通りの蹴りをひと通り練習した者を私は恐れない。むしろ1つの蹴りを1万回練習した者こそ脅威だ(“I fear not the man who has practiced 10,000 kicks once, but I fear the man who has practiced one kick 10,000 times.”)」と語ったという。蹴り技にまつわるこの奥義と英語はぼくの中で「あながち似ていなくもないと感じられるもの」としてつながっている。

その後、7時になりシャワーを浴びて洗濯機を回す。そして7時50分よりいつもの英会話のZOOMミーティングに参加する。毎週日曜日は基本的にトピックを設けない「フリートーク」の日。今日は以前にぼくに英語での3分間スピーチの場を快く与えてくださった女性の方とブレイクアウトルームでご一緒させてもらう。あまり信じてもらえないかもしれないけれど、ぼくはいつもZOOMの場では「いつ・なにを・どのタイミングで話したらいいんだろう」とぼくなりに空気というか会話のリズムを読んでいるうちに時間がどんどん経過してしまい、けっきょくなにひとつ話せないで終わるという傾向がある。こんかいもそんな感じだったのだけど、ここは人を押しのけて話して笑いを取るべきか。それとも譲るべきか(「ZOOMの極意は『ぶつかってから譲る』ですよ!」と教わったことがあるのだけど……)。

そのZOOMミーティングの席で先述した女性と、感動的な(つまり人の胸を打つ)スピーチとはどういうものかについても話がおよんだ。ぼくたちが共通の結論・認識として至ったのは、かならずしもゴテゴテとレトリックを駆使したものではなく、単純明快で簡素な中にその人の正直さ・誠実さが表れ出るスピーチこそだいじではないかということだった。なるほどと思わされ、これにかんしてもまたもやふんどしを締め直す気概がだいじではないかと思った。ぼくの英語はどうしたってなんだかスパゲッティみたいにこんがらがった英語になりがちなので、その意味でふだんからシンプルに考えるくせをつけるってことが肝要なのかなあ、と。いいことを教わったと思った(次週、またぼくの3分間スピーチが予定されているのだ)。

その後朝食を摂り、9時からこんどは別のZOOMミーティングに参加しそこでまたもや1時間英語でほかのメンバーたちと語らう。話題は「正月三が日をどう過ごしたか」と「今年の抱負はなにか」というもので、そこでぼくもあれこれ英語で話す。そうこうしていると、何年か前にとあるぼくの英語の先生のZOOMミーティングを介して知り合ったインド人の青年がルームに参加されたのでおどろいた。さっそく新年の挨拶を交わす。元気そうなのでうれしかった。

それも終わると今日は予定もなく、今日はこの年末年始で溜まった疲れをすこしでも取るというか癒やすべく本を読んで過ごすことにする(いや、いつもとまったくおなじ過ごし方なのだけれどこんな「単純な生活」がぼくのコンフォートゾーンを構成しているようなのだった)。今日のお供は中島義道『英語コンプレックスの正体』でこれがなかなかわかりやすくておもしろく、内容に諸手を挙げて賛同するというわけではないにせよ「啓発される」部分と「疑問を持つ」部分が同居しているのできわめて興味深い1冊に感じ取れる。さいきんは付箋を貼りつつ本を読むくせをつけているのだけれど、この本もけっこうな量の付箋を要した。

中島の世代(団塊世代)は絵に描いたような「白人コンプレックス」「西洋中心主義」に苦しめられたようで、筆致からいかに当時がきびしい時代だったか伝わってくる。ならばぼく(団塊ジュニア)の世代はどうか。ぼく個人にかぎって言えばインターネットが普及しはじめ発展していく時代を生きたことになるけれど、その過程で遠かった諸外国の文化・政治がグッと身近に迫ってきてなじみ深いものになるというようなそんな過程を体験したと思う。ただ、それでも「これからは国際化の時代。したがって英語は必須(できてあたりまえ)」という空気は知識人たちのあいだに漂っていると感じ取れた。あくまで私見になるが。

著者の中島はこの本の末尾で、「英語コンプレックス」をどう克服するかの処方箋を書いている。その中でもとりわけ感動的なのは、「人生で最も大事なことを見失わない」という見地から「誠実」さをの重要性を説いている。「誠実な言葉は、いかに貧しい言葉でも、その人を輝かせてくれる」(p.241)。もちろん冷笑的に「それってあなたの感想ですよね?」とまぜっ返すこともできるだろうが(そしてそうして「斜めから」ものを見ること自体がまったく悪いとも言い切れないとも思うが)、ぼくはそれに与したくない。なぜ、と言われても困るが強いて言えばやはり「誠実な言葉」に数多く触れてきたから、としか言いようがない。この本もまた、ぼくの英語学習にヒントを与えてくれる「誠実な言葉」による本と読んだ。

その後時間が余ったので、Facebookにこの本の感想を投稿する。コンプレックス(劣等感)をどうこじらせずに乗り越えていくか……これはぼくにとっても永遠のテーマだ。いまだって英語が達者で弁舌さわやかな方を見れば「すごい」「悔しい」と思う気持ちが湧く。ただ、それに対しては「それはそれ」「人は人だ(その人だってみっちり鍛えたはずだ)」とバウンダリーを引いて自分のいたらなさだけにフォーカスして、そこからまた鍛え直していくしかないのではないだろうかと思う……なんだか英語の話になるとブルース・リーがどうとかふんどしがどうとかやけに男臭く・マッチョになってしまう。悪いくせですね。