遅番明けの朝、5時ぐらいに目が覚める。それでしばらくはいつものように哲学書などをペラペラめくったりTEDトークを字幕なしで聴いたりしていたのだけれど、そのうちまた眠気がやってきて床に就いてしまうとそのまますんなり寝てしまった。起きると7時45分だったので、時間もなくしたがって今日はもうシャワーも洗濯もできないなとあきらめてそのまま英会話のZOOMミーティングに参加する。今日のテーマは飛行機(航空会社)がどのように環境保全をこころみているかという話で、ぼくはふだんまったく飛行機に乗らないのでさっぱりわからない話題だったがほかの方々の英語・意見から多くを学ばせてもらった。
思えば、2026年の抱負をまだこの日記で公表していなかったことに気づく。去年はいったいなにを考えただろう……思い出せるのは50歳という節目になる年に差し掛かったからか、「夏目漱石を念入りに読みたい」という抱負を立てたのだった。ただ、そうした無謀な抱負はいつの間にか日々のいそがしさ・せわしなさの中で忘れ去られてしまい気がつけば漱石どころではない1年になった。漱石がらみの本ということで手に取った奥泉光の『「吾輩は猫である」殺人事件』はきわめておもしろかったけれど、裏返せばそれだけで終わってしまった。だからあまり無理は言いたくない。
この歳になって気づくというのもなさけない話だけど、こういう抱負というのはたぶんに「ふだんやっていること」の延長上にあることを設定してこそ実現可能性が高まるのではないか。それまでなにもやっていなかった人がいきなり「英語をマスターする」とか「本を週に2冊読む」とか設定しても無理がたたって失敗に終わりやすい。だから、ふだんから体を慣らして自分のめざしたいことに浸る環境を作ること、そうした習慣を築くことがだいじなのではないかと思った。その意味で今年は「朝の英会話のZOOMミーティングにできる限り参加する」と、あとは「TEDトークやBBCなど、YouTubeやSpotifyを使いこなしてコンテンツから英語を学ぶ」という2つの抱負を立てた。
それはさておき、今日のZOOMミーティングもいくつか学びがあった。まず、「付箋」を英語でなんていうかわからず苦吟してしまった。ただちに思いつくのは「ポストイット(post-it)」だが、実はほかにも「sticky note」などの呼び方があるようだ。この年齢(満51歳)になると記憶力も体力もおとろえてしまい、したがって自分に絶望することもすくなくない。ただ、そこはそれ。衰えていく自分に悲観的になってもしょうがないので、けっきょくは前を向いて積み重ねていくしかないのだった。
10時より仕事に入る。仕事のあいまに英語でメモを取るのはいつもと同じ。今日は仕事に入る前にアントニオ猪木の入場曲(「イノキボンバイエ」でおなじみのあの曲)を聴いて気合を入れた。ただ、思えばぼくはプロレスなんてまったく縁のない人生を送ってきたので猪木と言ってもピンとこない。せいぜい猪木の名言集を繙いたことがあるぐらいで、したがってぼくは猪木のパブリック・イメージしか知らないということになる。そんなので猪木がどうとかいうのだから「へそで茶を沸かす」思いの人がいたっておかしくないだろう。
パブリック・イメージでなにかを語るということは、つまり本質に触れないままに口当たりの良いイメージ(虚像)だけでものごとを判断することを意味する。したがって、ぼくは猪木を知らないくせに猪木の言葉(「闘魂」「馬鹿になれ」などなど)を口の中でころがしているのだった。でも、ならばほんとうの意味でなにかを理解するということはできるのか。ぼくはウィトゲンシュタインの著作や彼にかんする解説書を読む身だが、ウィトゲンシュタインを深く理解しようとすることなんてできるのか。かりに文献をぜんぶ読み、遺稿も目を通したとしてもウィトゲンシュタインを(広く言えば「人間」を)理解することなんて無理なのではないか。
もちろんこんな論の進め方は極論に走った「開きなおり」の「盗っ人猛々しい」ものでしかないのだが、でもこんなことを考えはじめるとなかなかおもしろくなってきて仕事中は始終「ボンバイエ」と口ずさみながら考えを走らせていた。そこから、ぼくがほんとうに「知っている」と(常識的な意味で)言えそうな個人的なヒーローたちのことをも考えたりしたのだった。村上春樹や坂本龍一がまず思い浮かぶ。でも、ぼくが文学や音楽にほんとうに触れはじめたのは90年代からなので80年代の春樹も教授もまったく知らない。そんなありさまで語っていいのか、と考えが及ぶ。
ことにぼくの場合、記憶がゆがむくせがあるらしくだから思い込みでまったくひどい記憶違い・誤解を露呈させることもめずらしくない。ぼくの中でかろうじて「知っている」春樹や教授の実像ないし虚像だって、人間生きているといろいろあるから必然的に「ゆがむ」「変わる」こともありうる。その場合どこまでぼくはその人のことを知っていると言えるのだろうか。いや、これに答えなんて出せっこないのだろう。常識的なところというか最大多数が納得するところで折り合いをつけて「まあまあ、熱くならないで」と矛を収めるのがぼくたちの世の中ということになりそうだ。
そんなこんなで仕事が終わり、帰宅して夕食を摂った後近々予定されている英語研究会の輪読の課題であるラフカディオ・ハーンの回想録を読み返す。こんかいの読みでも、調べがおよんでいなかったところがいくつか見つかる。たとえば「plan」という語が出てくるが、これをそのまま「プラン(計画)」と訳すと意味が取れないところが登場する。調べたところ「plan」には「図面」という意味もあるらしい。こんな用法は知らなかったので、また1つ勉強になったと膝を叩いた。それが一段落するとこんどはなにか読もうかと思ったが、まったく頭に入らない。大好きな田中小実昌や保坂和志の哲学小説を繙いてもぜんぜんピンとこない。なんだかいまは本を読む気分・ノリではないのかもしれない。そういうこともあるのだった。
