今朝、5時頃目覚める。その後落ち着かずしたがって寝直すこともできないまま、部屋にある本をパラパラめくったりスマートフォンに入っていた新年の挨拶メッセージをチェックしたりして時間をつぶす。その後7時になったのでいつものようにシャワーを浴びて洗濯機を回し(まったく新年という感じがしないけれど)、そして7時50分からの英会話のZOOMミーティングに参加する。今日の話題は生涯学習がもたらす利得についてだったのだけど、ふたを開けてみるとそれぞれ参加された方の住む土地のお雑煮や正月料理の話題、そして今年が丙午であることなどで盛り上がる(ブリのことを"yellow tail"と呼ぶことやじゃじゃ馬娘を"tomboy"と呼ぶことを習った)。
その後、グループホームのおせち料理をいただいた後とくにやることもなかったので、もちろん部屋に居て寝正月を決め込んでもよかったのだけどそれもなんだかすっきりしない感じがしてだんだん居ても立っても居られなくなり、イオンに向かう。そこでなにか本でも読むか英語メモを書くかしようかと考えたのだけれど、ぐっすり眠っていなかったせいか昨日の仕事の疲れが残っているからか、ぜんぜん頭が働かない。メモパッドに思いつくままに落書きでもしようかと考えてもペンを動かすことじたいめんどくさいという状態だったので、あきらめて初買いを楽しもうと3階にある未来屋書店に向かった。
そこでいろいろ本を探し、講談社現代新書の1冊である難波優輝『物語化批判の哲学』を買い求める。さっそく読んでみるとこれが実に興味深い内容で、自分語りや考察ブーム、就活での成功体験語りや陰謀論、MBTIブームや推し活といった現代にひろく見られる現象を「物語」というキーワードで読み解こうとこころみている。明晰な文体に惹かれて読みふけってしまい、けっきょく午前中を費やしてしまった。こうした本と新年早々めぐり会えたというのは実にうれしい。
著者の異論・批判はぼく自身にもはね返ってくるところが多々ある。たとえば、ぼくもMBTIやASD(発達障害)のターム(キーワード)を使って自分を語るところがあるし、この日記でもさんざん「つらかった過去→40で断酒→メンターとの出会い→そしていま」といったような自分語りを垂れ流してきた。その意味で、そうした自分語りに閉じこもることが外部への目をふさぐことになる(認知バイアスの弊害により見えるはずのものが見えなくなる)という著者の視点はだいじだなと思った。これはあなどれない。
ここからは著者の論理とずれるが、発達障害にからめて「こんなケアレスミスをするから発達障害なんだ」「発達障害だからこんなミスをするんだ」と自分語りをすることは、いっぽうでぼくの実感として「人とは類型化できるものだ」「カテゴリの中に自分を入れることで良くも悪くも自分が理解可能なものになる」という心理をあたえてくれる。だが、そうした腑分けが人の中の理解不能な要素(誰だって持っているはずの「心の闇」がまず思い浮かぶ)を漂白し、したがって尊厳さえ奪いかねない方向に向かうのではないか。ひらたく言えばのっぺりした人間像にしか行き着かない。そんなことをも考えた。
ただ、問題があるとも思う(もちろんぼくはこの本を1度しか読んでいないので読み飛ばし・誤読の可能性は大いにある)。まず著者が「物語」という言葉をどのように定義しているのか見えづらいことが挙げられる。いや、意地悪く考えるまでもなくそれはなんらかの起承転結の構造を持つ(つまり、山あり谷ありの起伏・うねりを持った)ストーリーであり、その中にひそむイデオロギーないしはバイアスの偏狭さを著者は批判しているということかもしれない。だが、これはぼくの勝手な読みにすぎない。これでいいのかどうか不安が残る。
あるいは現実(リアル)で展開する物語とSNSで広がる物語をいっしょにしていいのかどうかも疑問があるし、物語とそれに内在するキャラクターの関係についても興味を抱く(もっと掘り下げられるのではないか、というように)。だがこれらの疑問を挙げたからと言って、ただちにぼくが著者を批判しているとは取らないでいただきたい。ほんとうに語る価値もない本について時間を割くほどぼくはお人好しではない。この本に内在するそうした疑問点・違和感はそのままぼくが新しい思考を走らせるきっかけとして作動しはじめるはずだ。だからもっとこの本を読み込んでいきたい、と思った。
その後、グループホームの自室に戻り昼食を摂った後ひと眠りする。そして午後がおとずれ、あいかわらずなにもやることもなかったので部屋にあった本の1冊である野矢茂樹『語りえぬものを語る』を読みはじめる。野矢茂樹の筆致はウィトゲンシュタインをはじめとする哲学者を引用しつつ言語や概念の翻訳可能性といったことがらを探求していく。これもまた安易に読み飛ばせない。
そして、たいして哲学の修練を積んだわけでもないぼくが野矢茂樹やウィトゲンシュタインに関心を持つのもたぶんに子どもの頃に自分の言葉が通じなかったこと、どこへ行ってもその奇矯な言葉づかいのせいで不気味に思われたりいじめられたりしたことが原体験となっているのかなあ、と思った。いや、ドイツ語なんてできないのでウィトゲンシュタインなんてわかるわけがない。でもその実感から哲学ごっこに走る五十路がいても、まあいいじゃありませんか。
その後、YouTubeを探して見つけたTEDトークの動画の視聴ですこしリスニング能力を鍛えんとする。こうした地道な努力をかさねること以外に、すくなくともぼくにとって英語を鍛える方法なんてないと思っている。そしてそれも一段落するとまたヒマになったので『田中小実昌哲学小説集成Ⅰ』なんかを読み返す。やはりというか、今年もこんな感じで「単純な生活」(とはぼくの好きな阿部昭の小説の題だが)をつらぬくことになりそうだ。ただ、今年気に留めておきたい抱負としてリスニング能力を鍛えることとYouTube動画を探し続けることは書いておいてもいいかもしれない。
