今朝は寝坊もせず、いつもどおり7時頃起きる。遅番明けでクタクタだったのがよかったのかもしれない。いつものようにシャワーを浴びて洗濯機を回し、その後7時50分からの英会話のZOOMミーティングに参加する。今日の話題について話す前にそれぞれのメンバーが年末年始について話をする。とくにおせち料理や餅作りなどに話が及んで、英語を使ってなんとか意志を疎通させる。その後、昨日と同じようにぼくが背景として使っていた自作のマインドマップについて話題を振られたのでそれについて答える。「哲学者みたいですね」と言われてしまったのがうれしかった。思えば哲学を自己流・徒手空拳で深堀りしようと考えはじめるようになったのもメンターとの出会いがきっかけだった。
これから話すことはなんだかややこしい話になるのだけれどそれでも時系列順に話すなら、そんなこんなでZOOMミーティングを終えて後朝食を摂りそして出社する。仕事に入り、ふと職場にて小さなミスを発見する。ぼく個人に単独に責任があるというわけでもないにせよ、それでもぼくにも「こんなのを見過ごすなんて正直ナメてたな」とはね返ってくるミスでもあったので「負けを認められない奴は強くなれない」と自分に気合を入れてそのミスを報告した。ぼくはその格言をアントニオ猪木が言ったものと勝手に思い込んでいたのだけれど、ふと気になってGeminiを使って調べてみたところ猪木がそんなことを語ったというソースが見当たらない。それで「うむむ」となってしまった。どこでそんな思い込みの勘違いが芽生えたんだろう。
いや、ぼくもとうぜん人間なのでミスもするし思い込み・思い違いでとんだ恥をかくことだってありふれたことというか日常茶飯事でもある。でも1度生まれた思い込み(偏見・バイアス)を正しい知識で上書きするというのがこの頑固な発達障害の性分にはむずかしく、おおげさになるけれどめまいがするような気分まで感じてしまった。昼休みにサンドイッチを食べた後、このことをDiscordに書く。女友だちがAIを経由して調べてくれたところによると『徒然草』か『HUNTERXHUNTER』にそうした名言が登場するということなので、冨樫義博やアントニオ猪木が『徒然草』を読んで勉強していたりしたのかなあ、とも思ってしまった。
それで考えが「負け」「敗北」という概念をめぐってあっちこっち飛び散るというかぐるぐる回るというか、なんだか腰が座らない・妄想たくましい思念をかかえて仕事をしてしまった(あまつさえ、あまりにも絶好調に思考がはかどるので「なんだかこれを書いておかないともったいない」と思って仕事中こっそりメモを書き留めてしまった)。「どうやってぼくは『負け』を認めてきたか」「そもそも『負け』どおしの人生だったのではないか」とか考えて、そこから唐突に村上春樹の名短編「かえるくん、東京を救う」の一節である「でもアーネスト・ヘミングウェイが看破したように、ぼくらの人生は勝ち方によってではなく、その破れ去り方によって最終的な価値を定められるのです」を連想したりした。
ただ、問題は誰に・なにに対して「勝つ」「負ける」ということではないだろうか、とも思ったりしたのだった。いつもながらうっとうしい自分語りに終始してしまうけれど、ぼくも過去に自分をデカく見せたいとはったりをかまして、議論において相手をぶちのめすことを試みたり私生活において都合の悪い部分を隠して幸せアピールをしてみたりしたことを思い出す。いや、アホだったなあと反省もする(ただ「都合の悪い部分を隠」すことそれ自体がいちがいに悪いということでもないのもたしかだな、とも思う)。いまは議論やコミュニケーションにおいて勝ち負けを気にしたりしない。英語のスキルを磨くことにおいても誰かとやみくもに・むなしく比べたりすることもない。うまい人を見れば虚心に見習いたいと思うけれど、それよりも過去にまったく英語がちんぷんかんぷんだった自分と引き比べて、「ぼくもやればできるってことかな」と喜ぶだけだ。
昼休みの残りの時間、以前に書いたラフカディオ・ハーンの回想録の原文を読みふける。じっさいの英語研究会の席ではこれを口頭で和訳せねばならないので、したがってなかなか気が抜けない。見慣れない・なじみのない言葉ももちろんきびしいが生半可に「わかったつもり」になってしまっている言葉にも罠がひそんでいる。たとえば「sensation」。これを素朴に「センセーション」と解釈してしまうと「あれ? そもそも『センセーション』ってどういう意味だっけ」となってしまうので、辞書を引いて「大評判」「大騒ぎ」という意味に取れると学ぶ。そこまで呑み込まないと本番で満座の失笑を買う。これもまたきびしい。
午後の仕事に戻り、ふと仕事中「この人生に意味はあるんだろうか」と考えはじめてしまう。とくにむなしいことというかつらいことがあったわけでもないのだけれど、でも肉体労働で身体を動かしながらふと「ぼくはもともと頭脳労働に向いているんじゃなかったかな」と考えてしまったことがきっかけだった。ぼくは筋力も肺活量もないし、たるんだ腹やおしりをさらして動くただの中年にすぎない。それで困ってしまったのだけれど、でもまあ身体を動かして汗をかいて(こんな寒い日でも!)仕事をしているとそれなりに・そこそこ楽しいしまあいいか、と思ってしまった。なんだかニーチェ哲学みたいだなあ……と思い、そこでふと「ニーチェはそんなこと言ってたかな」と思ってしまう。
仕事も終わり、グループホームの自部屋に戻ってそこでぼくが持っているニーチェの文庫本『愉しい学問』『ツァラトゥストラはこう語った』と、それらを訳した森一郎の講談社選書メチエの解説本を引っ張り出す。それでボーズ・オブ・カナダを聴きつつ『愉しい学問』をすこし読む。いくらなんでもこの女性観は(ぼくはフェミニストではまったくもってありえないが、それでもなお)ナンセンスだと思ったり、ほかにも寸言・箴言形式ゆえの緻密な論証を欠いた部分が気になったりする。でも、それでももちろん読ませ・考えさせる強度がある。明日の大晦日からしばらくは『ツァラトゥストラはこう語った』をめくってみるのもいいかなあ、と考えたりしてしまった。
