今朝も6時半ぐらいに目覚めて、その後うつらうつらして7時をむかえる。毎朝のルーティーンであるシャワーを浴びて、その後洗濯機を回すという段取りに入る。思えばぼくはそんなにきれい好きでもなんでもなく、げんに実家にいた頃はむしろぜんぜん風呂なんか入らず(酒びたりで過ごしていたので風呂なんかどうでもよい・めんどくさいと思って)暮らしていたのに、こうしてグループホームに入らせてもらって断酒にもはげむこともできて、生活の基盤が安定するとシャワーを浴びるのもさほど苦にならないようだ。あとは発達障害の特性で決まった時間に決まったことをしないと気が済まないという性分もあるので、それでシャワーを浴びてしまうのだろう。
7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加する。今日の話題は理想のハイキングコースについてで、ぼくはふだんは山には登らずもっぱらイオンで本を読むかジャズを聴いて過ごすインドア派・内向的な人間なのだけれど、これも「ほかの方々のお話を聞くのも勉強になるだろう」と思って参加する。ぼくの近くのハイキングコースについて訊かれたので、近所にある低い山を紹介する。参加されたほかの方々は英語がみな達者な方ばかりで、ぼくはいまもなおつい「文法的に正しい英語を話さないといけない(もしくはカッコ悪い)のではなかろうか」とおくびょうになってしまってなかなかZOOMの雰囲気では外向的になれない。まあ、これも慣れの問題なのだろうと思う。
今日は早番なので10時より仕事に入る。そしていつもどおり1時に昼休憩の時間をもらって、昼弁当を食べ終えた後にぼくがズボンのポケットに携帯しているメモパッドにに思ったことをあれこれ書きつけていく。使う言語はもちろん英語だ。たとえば、昨日の夜日記を書き終えた後にLINEのとあるオープンチャットのグループに参加した際、ぼくの年齢が話題となったことを思い出した。ぼくは実を言うと今年で50歳になる。そのオープンチャットのグループは中学生や高校生くらいの子たちも出入りしているみたいなので、そういう子たちからすれば50歳というのはけっこうな大人というか下手をすると初老の人間みたいに見えるものなのかな、と思う。年齢のことでからかわれることもそうめずらしいことではない。
英語には「Age is just a number(年齢はただの数字)」という警句がある。もちろんそれは励みになる警句なのだけれど、でも過去にぼく自身が20歳くらいでまだ右も左もわかっていなかった頃はたしかに年輩のユーザーたちが大人びて見えたものだったな(悪く言うと加齢臭も感じられたかな)などと思ったりもした。当時大学のパソコンを使わせてもらってネットニュースを購読したり、佐野元春などのウェブサイトを閲覧したりしたことなどを思い出す。ウィンドウズ95が出た頃だったか。あれから30年。時代はめまぐるしく変わった。あの頃、ぼくはいまのように英語学習にはげむようになるとはこれっぽっちも予想できなかった。
ふと、「いまの」ぼくはあの頃とくらべてどう変わっただろうかと考えてみる。モハメド・アリが言った言葉で「A man who views the world the same at fifty as he did at twenty has wasted thirty years of his life」というものがある。ぼくなりに訳すと「50歳の時点で20歳の時とおなじように世界を見ているヤツは、その時点で30年を無駄に生きたのとおなじだ」となろうか。反論できなくもない言葉だが、でもぼくはこの考え方が好きだ。20歳の時ぼくはもっと青くさい理想に燃えていたし、さわったばかりのインターネットで舌戦を繰り広げて大恥をかいたこともあった。いまはどうだろうか。夢想家であるところと熱くなりやすいところはいまも変わっていないけれど、それなりにやけどを負って強くなったのかもしれないなとも思う。
30年……いろいろなことがあった。途中で発達障害のことがわかったり、それ以外には一時期なにがなんでも自分をコケにする世の中を見返してやろうと考えたりして、ずいぶんがんばったこともあった。ぼくは怨恨や復讐心から行動を起こすことを否定しない。ただ、ぼく個人の生き方としてそうして誰かを打ち負かすとか痛めつけるとか考えて生きていると目つきが悪くなるし、態度にもあらわれて友だちが減っていくのもまたたしかなようだ。ぼくの場合は10年前の自助グループの加入から、そうしたネガティブな動機づけで頑張るのではなくポジティブな動機づけ(誰かを喜ばせたい、という考え)をだいじにするようになったと言えるのかもしれない。それもまた生き方の1つだ。
5時に仕事を終える。その後、自室に戻り夕食を摂った後吉本ばなな『キッチン』の英語版を読み続ける。20歳の頃に読んだ時はなんだか淡白で、その淡さが物足りないとも思ったりしたっけ(当時は「余白を読ませる」技法・技巧というものを知らなかった)。英語版で読む吉本ばななの世界はなんだか唐突に人が亡くなったり、あるいはごく庶民的な要素・ことがらの中に神秘的なたたずまいというか聖性が浮かび上がってくるようにも見える(それこそ「キッチン」という場所がとくべつなところとして見えてくるし、あるいはカツ丼にまつわる逸話も読みごたえある)。この歳になって、英語で読む吉本ばななもまたオツなものだと思った。図書館で借りたほかのペーパーバック(カズオ・イシグロ、ヘミングウェイ、村上春樹などなど)も読めればと思う。
