単純な生活

Life goes on brah!

20251209

昨日もらった新しい頓服を服用したせいか、今朝は6時半頃目覚めその後ウトウトしているうちに7時を過ぎる。いつもの朝7時の習慣をこなすべくシャワーを浴び、その後昨日着ていた服を洗濯機に入れて回す。察しのいい方ならお気付きの通り、冬だろうとなんだろうとぼくは昨日の服を洗うことにしている(入浴で使ったタオルなどといっしょに、豪快に洗ってしまう)。両親があきれて「冬にそんなに洗濯することはない」と忠告してくれたこともあったけれど、それでもぼくは「洗わない日」を決めることができない(というか、臨機応変に洗濯物を「溜める」「取っておく」ことができない)。洗うとなるときっちり・定刻に洗わないと気が済まないのだ。世界よ、これが発達障害である。

今朝はジャカルタが東京を抜いて世界一の都市になったという話題を軸に盛り上がる。ぼくはインドネシアに英語の先生を1人持っているが(いや、ジュディスさんというその方はぼくの「メンター」の1人と言っても過言・過褒ではありえないだろう)、あいにくジャカルタのことはわからないままなので話題についていけず往生してしまった。参加された方が自身の勤務先の話を深くされて、聞き手に回っているといつの間にか時間が過ぎてしまった。こういうミーティングはもちろん聞いているだけでも立派な勉強になるので、それでまあ「こんな日もあるだろう」と考えることにした。

明日、となり町の高校でボランティア・スタッフとして仕事をすることになる。そのことを職場で切り出そうか迷ったものの、なんだか仕事とは縁もゆかりもないたんなる身辺の些事なので話しづらい。ぼくの働いている環境は特殊で、女性が主に成り立っている職場で男はぼく1人なので被害妄想と言われようがなんだろうがぼくは勝手に疎外感を覚えてしまう。そう考えていくとこの性格上、泥沼にはまってしまう。なんだか落ち込み、こんな話に誰も興味など持たないだろうと考えると自分のやっていることが無意味に感じられてくる。

そこで考えられることとして、「孤独になにがなんでも耐え抜く」「孤独に耐えなければ強くなれない(強い証ではない)」という捉え方を選ぶという案がある。ぼくも過去に別の部署でそれこそ針のむしろのような思いで仕事をしていた頃、「男なのだから強くならなければ」と考え、そこから「いまの自分は甘えている」「男らしくない」と考え込むことになった。だけど孤独に耐えるというのはそうかんたんなことではない。ぼくの正直な実感を書かせてもらえるだろうか。孤独というかさびしさは、錆のように人の心を蝕むものだと勝手に感じている。

強くならなければならない、1人で生きていかなければならない、甘ったれてはならない、働かなくてはならない(休んではならない)……30代の頃まで、つまり子どもだった時期から30代までそんな「呪い」にさいなまれて苦しい思いをして、まだジョブコーチともお会いしておらず自助グループともグループホームともつながらせてもらっていなかった時期でもあったのでそれがほんとうにつらく、孤独に耐えられなければなにもかも「うっちゃる」策としてけっきょく酒に逃げるしかなかった。そして、酒で死ねる日を夢見たりもしたのだった。

そんな日々を経て……いまは驚くほどたくさんの場所にぼくのことを受け容れてくださる人たちがおられるのを感じる。昼休みになり、とくにこれといってなにかやる気力も湧かずトム・ウェイツを聴きながらFacebookのコメントを読ませてもらい、そのコメントにありがたみを感じる。いや、ぼくはぜんぜん自分が高貴な存在・魂の持ち主だとは思っていない。ぼくを割ってみればその中から出てくるのは淫欲や俗物根性のかたまりであるだろう。ただ、それにたいしていつの間にか忠実であろう、嘘はつかないようにしよう(嘘をつくのは下手なのだから)と思うようになったのだった。

過去、この淫欲・邪念がぼくは嫌いでしょうがなかった。だからこそ、そうした欲とは別の超然とした境地にあこがれたこともあった。一種の修行僧のような境地というか。子どもの頃に「お前は変わり者だ」「エッチないけない子だ」とさんざん足蹴にされたことも尾を引いているのかもしれない。いま、ぼくの周りにはたしかに理解者たちがたくさんおられる。そのことのありがたみを知り、そしてここでは書けないながら今日はその人たちに思いっきり甘えられた。そのことを詳細に書く気はないが、ただこの恩義を忘れたくないと思った。

仕事が終わり、図書館で借りた沢木耕太郎『作家との遭遇 全作家論』をすこしずつ読む。いままで読んだところでは山本周五郎向田邦子色川武大を論じたところに興味を惹かれる。若い頃、それこそ10代の頃から村上春樹を読んだりして作家にあこがれたぼくは、ついに1行も書くことができず終わってしまったがその理由が今日の読書でわかった気がした。まだまだぼくは書物の海の中に生きるだけで実人生を生きておらず、したがって自分の限界も可能性も(ひらたく言えば「なにができてなにができないか」も)わかっていなかったんだろうなと思った。とにかく、なにがなんでも生きるのだ。そうすればすべてはあとからついてくる。

夜、英会話教室に通う。今日は最後のレッスンということで2026年の抱負をみんなでシェアしたり、その後ゲームに興じたりする。ぼくは思い起こせば今年の抱負は「夏目漱石をみっちり読む」だったものの、けっきょく気が向かず・気乗りせず終わるという情けない体たらくだった。なので、今日のレッスンでは「英会話のZOOMミーティングに出せる範囲で顔を出す(なるべく毎日)」という目標を語った。もし可能ならそれこそ沢木耕太郎の『ミッドナイト・エクスプレス』(『深夜特急』の合本版)を読破したいと思っている。