単純な生活

Life goes on brah!

20251117

実を言うと今朝は(またしても)寝付けず、4時ぐらいに目が覚めてしまってそれでしばしぼんやり覚醒した状態で、それまで読みかけていた中島義道『観念的生活』を読み終える。中島義道のこの日記からこれまでぼくはずいぶん多くのことを学んだ。どんなメインストリームの哲学的言説(ざっくり言えば論壇やジャーナリズム)にも近づきすぎず、自分の問題意識(死、時間、カント哲学など)をごまかさず考え抜く。その姿勢をぼくも見習いたいとあらためて思う。するとこの本の中で特権的な哲学者として登場するサルトルを読みたくなり、積読のままの『存在と無』もさることながら『嘔吐』をひさしぶりに読み返してみたくなって、それでカバンの中に『嘔吐』を突っ込んでしばしまた床に就く。

その後7時頃起きてシャワーを浴びて洗濯機をまわし、そして7時50分から英会話のZOOMミーティングに参加する。今日の話題は日本で人気の赤ちゃんの名前についてで、そこからキラキラネームについてやぼく自身のリアルネーム(本名)についてなど話がおよんだ。その昔(30年以上前?)悪魔という名前を市役所に提出しようとしてニュースにまでなったあの人たち、いまはどうしていることか。

その後、今日は月イチの通院日ということで総合病院まで行く。こんかいでマイナンバーカード(もちろん、社の保険証と紐付きも完了している)を提示して診察を受けるのも2回目。9時半に先生とお会いしてそこでここさいきんのことなどをあれこれ話す。先月、発達障害の支援施設の方とお会いしたことやジョブコーチ面談であれこれ話し合ったことなど。その後、いつものように薬局で薬をもらい近場にあるイオンに行く。

薬を待つ時間、サルトルの『嘔吐』を読んだりしたもののなかなか頭に入らない。そしてイオンでその続きを読もうとしても、中島義道のように華麗に哲学的な考察をおこなうわけにもいかず頭の中がなんだか混乱してきた。なにも浮かんでこない。それで、英語でいつものようにメモを書こうとしてもこれまた無益なことをしているような気になってくる。いま思えば(これはもちろん、この日記を書いている「いまこの時点」ということだ)なんでもいいから書けばよかったのに、思念がまとまらない。

それで投げ出してしまって、たぶんにここさいきん5連勤あったり職場で年末進行で気忙しい状況が続くことが原因なんだろうとあきらめることにする。それに加えて、ぼくはこの歳でもまだ独身でクリスマスは肩身が狭い時期でもある。クリボッチの話を前にしてしまったが、考えてみればクリスマスに独り身をもてあますことが法的に悪いわけでもなんでもないのに同調圧力を勝手に感じてしまい(「勝手に」というところがミソだろう)、そこから勢いあまって異性(性愛の対象)を求める欲望に身を焦がしてしまう。それでつらい思いをするのだろうな、と思った。

その後も『嘔吐』や、持っていたアンディ・クラーク『経験する機械』をちまちま読んで気散じを試みるもはかどらず……けっきょく午後12時半になり、そこでグループホーム本家に行く。本家にて1時半からある方とお会いする約束があったのだった。その前にすこし、ぼく自身が悩んでいることがら(先にもさんざっぱら書いた「さびしさ」をめぐる益体もない悩み)をLINEである方にお送りする。こうして言語化すること・伝達することでなにか変わればと思った。

1時半になり、ミーティングの席であれこれ話す。さいきん不調であること、私生活で英会話教室に通ったり先日ふれあい祭りに参加したりして海外の人たちと交流を深めているということ、仕事のほうで年末進行でいそがしくなるかたわら自分のペースでしっかり働くつもりであることなどを話した。相手の方もはげましてくださり、ここでは書けない性愛の話も受け留めてくださった。そのことをあらためてありがたく思う。

そのミーティングが終わり、そして今日はこのまま休んでしまおうと思って(もともと仕事は今日は休みだったのだけど)自室に戻って『嘔吐』の続きを読む。主人公ロカンタンの「冒険」に思いを馳せ……読めば読むほど、この『嘔吐』 はオーソドックスな意味での小説としては山場やオチということで弱いかもしれないが、サルトルの哲学的なセンスや思索の強度に唸らされる。それは冒頭で書いた中島義道の哲学のセンスとも共鳴するものだろう。日常生活の中における「存在」や「いま(現在)」というエレメントをつかみ取り、そこから独自の思索を繰り広げる。その濃度に息を呑んだ。

その後、さっき書いた性愛のことについてLINEやMeWeなどで相談ごとを信頼できる人たちに(時に英語を使ってでも)お送りする。あきらかなこととして、そうした相談相手(女性もふくむ)がいるということはとりもなおさずぼくは孤独なんかではありえないということだ。女友だちもいるし、メンターもグループホームの管理者の方々もいる。過去、酒に呑まれていた頃孤独だったことを思えばまさに「隔世の感」がある。ただ、それでも染み付いて離れない「さびしさ」がうずく。それは肉体的な感覚をともなう、と書いたら奇異に思われるだろうか。

1人の方から、ぼくの生き方について「間違っているとは誰にも決められない」と返事をいただいた。その方の厳しさとあたたかさがこもったコメントを読み、そしてほかの方からいただいたコメントを読み、このことについてもっとぼくなりに考えていきたいと思った。過去、人間なんて本質的には孤独で、1人で生きて1人で死ぬものなのだとうそぶいて酒に溺れていたあの時期を思えば……いまはそれでも人間的なあたたかさを希求する真の人間らしさが芽生えているということかもしれない。だから心が疼くのだろう。