単純な生活

Life goes on brah!

2025/03/26 ココロの庭から

BGM: Everything But The Girl - Downtown Train

今日は遅番だった。今朝、いつものように英会話関係のZoomミーティングに顔を出し、そこであれこれ・せっせと英語でやり取り。その後、遅番勤務の朝のプレッシャー特盛の憂鬱な時間を過ごすためにグループホームの本家におもむき、そこで食堂を使わせてもらい読書やメモ書きなどの時間を過ごさせてもらう。遅番勤務の朝というのはいつだってつらい。ぼくの性格というのは実に難儀で、だから「午後に仕事があるのだから午前はヒマだ」「ヒマだったらテキトーにだらだら時間をつぶそう」と切り替えられない。午前になにをしようが、午後のことがちらちら頭をよぎって落ち着かなくなるのだった。あるいは根っからの発達障害(多動性障害)の気性の持ち主ゆえなのか、テキトーに過ごそうかと思ってもそれでもぼんやりしていると産毛がチリチリするようなプレッシャーが迫りきてしまう。仕事のプレッシャーというのもあるし、ムダに時間が過ぎるのがこわいというプレッシャーもある。いや、だからといって計画性を持って日々過ごしているわけではまったくもってないのだけれど……なにはともあれ、そんな感じでプレッシャーと格闘しているとそれだけで頭がおかしくなる。とくにこんな桜が咲き始める時期はそうだ。春は頭がおかしくなる時期だ。

そんな感じでジリジリと産毛を炙られるような時間を、トレーシー・ソーンやベン・ワット、あるいはエブリシング・バット・ザ・ガールなんかを聴いたりして過ごす。明日木曜日の夜、毎週恒例の友だちとのZoomのミーティングを行うことになっているのだけどそこでなんでも「ビブリオバトル」というイベントをするようだ。メンバーが各々紹介したい本を持ち寄り、そして5分のプレゼンテーションをそれぞれこなしてそれをとおして他人にオススメし合うという企画らしい。どんな本を紹介したらいいかぼくもあれこれ考える。紹介したい作家ならたくさん存在する。それこそ村上春樹片岡義男沢木耕太郎ははずせないし、多和田葉子やぼくが瞠目して読ませてもらっている三木那由他や永井玲衣だってはずしたくない。でも、昨日読んでこの日記でも書かせてもらった袖川裕美『同時通訳はやめられない』を紹介できればと思った。袖川裕美のこの1冊をとおしてぼくは語学の学習にまつわるコツ・秘訣をさまざまに学ばせてもらったから、身体があたたまっているうちにそれを紹介したくなったのだった。

そうしてビブリオバトルのことを考え終えて、我に返るとなんだかまたプレッシャーにさいなまれてしまい落ち着かなくなる。あるいはもうこれはなにか、ぼくが根本的なところにおいて考え違いをしているとしか思えなかった。ぼくはこうして遅番勤務の日の朝、本やオンラインの記事なんかを読んでそれで英語を使ってそうした文章群から得られたことを英語でメモパッドに書きつけていき、思っていることを可能な限り明晰に・ひらたく言語化していこうとこころみる(英語で書くのは「なんとなく」だが、日本語で書くよりなんだか――ただの気のせいかもしれないけれど――ぼくの思考は英語を通すと明晰になるような印象を感じる)。でも、今朝はまったくもって心の中を見つめ続けても「無」しか存在せず、だからなんにも書けなかった。その空虚をつかまえようとしても、逃げ水のようにぼくから遠ざかっていく。時間のムダだと思ってあきらめてしまう羽目になった。ああ、実は柄谷行人の『探究I』なんかも持っていってみたのだがけっきょくページを開くことさえなかったのだった。ムダが多すぎるのがぼくの生活の情けなさ。

でもだからといって、な~んにもしないで1時間ジリジリとプレッシャーの炎に炙られる時間を過ごすのももちろん拷問のようで耐えがたい。なので、さいきん読んだ河合隼雄の発言のことを思い出し、どうせならぼくの中にある思念を表に(性急に「言語化」「文字化」するのではなく)吐露してしまおう、放流してしまおうと考えた。そうするためになにかないかと思い、するとカバンの中にあるクリアファイルに白い紙片が1枚挟んであったのでそれを使って「ドゥードゥルアート(イタズラ書き)」にいそしむ。つまりはぼくも「箱庭療法」をしてみたかったのだった。思いをまず、言語化・文字化して小さくまとめてしまうのではなく、ありのままに受けとめたいと思った。「心の中のゴミ」を自在に出してしまう、というか。ぼくはズボンの中にフリクションペンを持っているのだけど、そのペンでサラサラと書きなぐっていく。その後、それがカタチになったことを確認したのでWhatsAppやWeChat、LINEやDiscordやMeWeといったメディアで友だちに見せた。英語のオヤジギャグゆえに伝わるかどうか心もとなかったのだけれど友だちは理解してくれたようで、それがうれしかった。