単純な生活

Life goes on brah!

2025/03/20 ホワイトにこんがらがって

BGM: Bob Dylan - World Gone Wrong

今日は早番だった。今朝、いつもどおり仕事をこなしてそして昼休憩に入り、そしてふとスマートフォンを見たところこんなニュース記事が目を惹いた。というのは、今日はあの地下鉄サリン事件が起こってから30年目に当たる年だというのだった。地下鉄サリン事件といってもピンとこないかもしれないが、過去にオウム真理教という悪名高きカルト団体が(と言い切るのはあまりにも一方的すぎて問題があるかもしれないが、とりあえずこう整理する)東京の地下鉄にサリンガスを撒いて殺人をくわだてたことがあったのだった。当時ぼくは都内のとある大学に通い英文学を学ぶ学生で、田舎にいたぼくの両親があの事件直後にわざわざ心配して電話をかけてきたことを思い出す。いったいあのころ、あんなマンモス大学に籍を置いていた時期(たぶんなにかの間違いだったといまでも思うんだけど)、なにを考えていたんだったかなあ……そんなこんなで、たしかに生きてしまったこの30年という時間の間隔をあらためて振り返ってそこからあのみじめったらしいような痛みに満ちたような、でも間違いなくかけがえのない「青春時代」を振り返ったりしたのだった。ガラにもないことではあるにせよ。

これはきれいごとに聞こえるかもしれないが、でも真剣に言うのはぼくはそんな感じでオウムなどカルトに入ってしまう人・入ってしまった人を嗤う趣味なんてこれっぽっちも持っていないということである。というのは、ぼくは邪教的・密教的なカルトに入ったことはないにせよ政治的に極左のカルトに入りかけたことがあって(「セクト」と呼ぶべきだろうか、あとで聞いたところではかの全共闘の時代までルーツをさかのぼれる「モノホン」の左翼だったようだ)、それでエラいことになりかけたのである。ホントの話である。あれはぼくが20かそこらのころ、まだ世間知らずでイノセントで社会常識もへったくれもあったものではなかった。でも、誤解されると困るのは「彼ら」がそんな世間知らずのぼくを食い物にしようとオルグ(勧誘)してきたりあまつさえ洗脳を試みたりしたわけではないということだ。ぼくの側から、良かれ悪しかれきれいすぎるというかあまりにもホワイトな理想主義を持て余してしまっていて、それにほだされて誘われてホイホイ入りかけたというのが真相なのだった。そこから足抜けするにはまたいろいろそれなりに大きなドラマがあったのだが、それまで書くとさすがに長くなるのでまたいずれ。

言い換えるならば、たしかに過去のオウムなりぼくが入りかけた極左の団体なり、いろいろ悪名高きカルトはこの世に存在するだろう。だが、目を向けなければならないこととしてそうしたカルトの危険性をナメないことももちろん大事だが、ぼくの中にホワイトな理想主義があり余っていてそれにあまつさえ取り憑かれていたとするなら、そっちもまた問題だと思うのだ。世界を白か黒か、もしくは敵か味方かで強引に区分・分類してしまおうと躍起になってしまう単細胞過ぎる理想主義というか。そんなきれいすぎる主義がある限り、ぼくが別のカルトに入ってしまうのは「時間の問題」だとさえ思う。なんだかはなはだしく抽象的でカッコつけた言い方にしかならないのが恥ずかしいが、それでも思うのはそんな感じでカルトの危機や自分の中の理想主義の宿痾にたいしてなんらかの「抗体」「免疫」をつけるというか、きれいすぎる理想主義にたいして「すれっからし」になることが大事なのかな、ということだ。つまり、身体にワクチンを打って「抗体」「免疫」を作るように、せっせと本を読んだり人と語らったりしていろんなことを学ぶことがたいせつなのかな、と……そうすることがカルトの熱狂的・排他的な理想主義に抵抗できる強さというか柔軟さをつくる、と。いや、もちろんこれはほんとうにトーシロの意見なのだが。

カルトに対抗してどのように振る舞うべきかについて、ぼくはそのトーシロの立場から「専門家の意見をまずあおぎたい」としか言えないのがなさけない(ただ、開き直ってもいいとするならそんなドシロウトの立場から「触らぬ神に祟りなし」の姿勢で怪しいものには近寄らない・相手をナメないのも1つの処世術だとは思う)。でも少なくとも、こんなことを書いているぼくが「まとも」「正気」などいうのであればそれはそれこそぼくがつながらせてもらいお世話になっている(それこそタコ足式に所属しまくっている)グループの力添えが欠かせないとも思っている。毎朝の英会話関係のZoomミーティング、英会話教室に英語研究会、断酒会に発達障害がらみの自助グループなどだ。そのありがたみをゆめゆめ忘れてはなるまい。

そして、それこそ村上春樹がそのオウム真理教事件をテーマにして『アンダーグラウンド』『約束された場所で』やその他のエッセイで書いているように、小説やアニメや映画といった物語に助けられたことも大きいかなとも思う。そうした物語は(それこそ宮崎駿的な「巨匠」の作品からさまざまに流通するポップな作品まで)ぼくの感受性を鍛えて「抗体」「免疫」を作ることを助けてきたな、とも思ったりするのだった。