今日は早番だった。今朝、いつものように英会話関係のZoomミーティングにせっせと出席して自分なりに英語学習に精を出す。だが、今朝はなんだか接続が悪かったのかパソコンのオンボロのスペックの問題なのか、なんにせよなかなかZoomがつながらずけっきょくかんじんの英会話も楽しめずだった。まあ、そんなこともあるので気にしない。基本的にはこの毎朝のセッションにおいて、ぼくたちはさまざまな話題(日常感覚に根差したニュースから政治・経済・スポーツ・時事ネタまで硬軟とりまぜて)を英語を駆使してざっくばらんに・可能な限り忖度なく語っていく。思えばぼくがこのZoomミーティングに参加しはじめたころ、まだまだぼくの英語の能力はいまと比べて相対的にまだまだ修行不足でおぼつかず、ゆえになかなかうまくしゃべれずに四苦八苦したものだった。それを思えば少しは成長したのかなとは思う。いやはや、昨日はなんだか英語学習のスランプ(行き詰まり)の話を書いたはずだがその舌の根の乾かないうちから文字どおり朝三暮四っぷりを発揮して今日はこんなふうに自画自賛しているのだから世話はないというか。
陳腐な整理になるが、でもたぶんぼくがそんなふうに自由闊達な(だが、Xなどにありがちな「潰し合い」の議論ではなく真に相手を尊重し敬意を払った)意見交換にいまもってなお四苦八苦してしまう原因はいろいろありうる。これはもっぱら「私見(愚見)」というか「ぼく個人の感想」を語っていると割り引いて受け取ってほしいのだけど(なにせ科学的なエビデンスを示せないのだから)、ぼくにとってはネットを介して日本語を駆使して理詰めで相手とスリリングな議論をこなすことはむずかしい。ぼくが日本人ネイティブであるがゆえに多言を要せず相手に呼吸で以心伝心式の意思疎通を試みて、いわば「阿吽の呼吸」に頼ってしまうところがあるということもある。それこそなごやかな「和合」「調和」を破壊しかける寸前まで意見交換をこなし・議論をたたかわせて双方が合意できる事項・できない事項を見きわめる文化というものも(つまりは「ディベート」の文化も)日本ではまだまだ珍奇かもしれない。
ただ、ぼくは日本の文化が好きだし日本語だって大好きだから(むしろその側面から見れば、信じてもらえないかもしれないがぼくも1人の「愛国者」のつもりだ)、「和を以て貴しとなす」という日本の文化がくだらないとか言うつもりなんてもちろんさらさらない。ただ、そんな文化(もっと言えば「空気」)のもとではぼくのような自閉症のはみ出し者・異端者が必然的に割りを食うことはあって、それがつらいなとも思う。もっと言えばそんなふうに日本語のコードを読めることから「阿吽の呼吸」「一を聞いて十を知る」スムーズな意思疎通が保証された「空気」の中でせっかちに人が「奴は敵だ。敵を殺せ」的な排除のメカニズムを起動させる、そんな図式にしばしば辟易する。ぼくはがんこだから、そのことで生きづらい思いをしつつも同時に興味を抱いてしまったりもする。
10時より仕事に入る。午前中、今日も今日とて仕事をしつつあれこれ考える。とつぜん、これといってはっきり自覚できる前触れやきっかけなんてかけらも見当たらなかったのだけれど(だからこれが「フラッシュバック」というやつかもしれない)、とつぜん破壊的な感情に仕事中に打ち震えてしまい、それこそ我を忘れてしまいそうになった。ひらたく言えば、怒りを感じてキレそうになり、その感情の中でそれこそ冷静な判断力・理性をかき消されそうにさえなったのだった。「呑み込まれそうになった」と言うべきか。そんな感情をもちろん表に出しては目も当てられないので抑えて、そのかわり深呼吸したりいろいろ「まじない」をしたりして冷静さを取り戻す。落ち着いて考えればトラウマ(怒りの原因)としてよみがえってきたことというのは職場でずいぶん昔に起きたぼくを見舞った「パワーハラスメント」や学生時代にいじめられた経験などがまぜこぜになった感覚で、つまりはけっきょくはどうしようもないことだ(だって、もうその張本人をいま即座に問いただすことなどできないのだから)。しょうがないので英語でメモパッドにそのことを書きつけていく。こんな時、チャットGPTなんかを使えたらなあと思ってしまう(仕事中、そんな私用で使うのはさすがにまずかろうと思いあえてそうした解決策は禁じ手にしているのだった)。
その後、午後になり昼休憩をいただく。発達障害の脳というのは実におもしろく、昼ご飯の冷やしうどんを食べながらふとぼくがつねづねぼくなりに畏敬の念を以て読み込んでいるぼくの好きな哲学者・鶴見俊輔のセオリー(説)で「unlearn」という概念がいかに大事かを語っているのを思い出した。これは日本語でわかりやすく対応している言葉を導き出すのがヒジョーにむずかしい言葉だが(鶴見はたしか「学びほぐす」と訳していたはずだ)、つまりはいったん学んだことをあえて忘れんばかりのいきおいで「置いといて」、その学んだことに束縛されずそこから距離を置いたりあるいは相対化したりして学んだことを「くずす」というか、そこから自由になるということなんだろうと思う。武道や芸事などである「型」を学んだら、その「型」にとらわれずそれを「くずす」ことでその「型」をあらたな視点から見られるようになるというようなことか……いやはや、なんだか書いているぼくもわけが分からなくなってきた。
そんなこんなでまさにいまこの日記を書いているが、上に書いたことを読み返しておそらくはぼく自身英語という言葉やトラウマまみれの記憶について「unlearn」、つまり体得してしまったことを「学びほぐす」というか「そこから離れてみる」ことが大事なんかなあ、と思った。なんだかオチがついたような、おあとがよろしいようなよろしくないような、そんな日記になってしまった。まあ、そういう日もあるということで強引に〆させてください。
