単純な生活

Life goes on brah!

2025/03/14 古くさいぞ私も

BGM: Underworld - Something Like A Mama

今日は遅番だった。今朝、朝食を摂った後遅番の日の恒例としてグループホームの本家におもむく。たぶん以前に書いたことがあったかとも思うが、実を言うと来たる日曜日に英語研究会のミーティングであの『ハリー・ポッター』の冒頭部分を英語で輪読するミーティングに誘われており、すでにある程度までは予習はしてはいたもののもっと再読しておきたく思って、それで本家の食堂をいつもどおり使わせてもらえればという魂胆で向かったのだった。でも、今日はなぜかその食堂においてもまったくもって調子が出ず、集中できず乗らなかった。かれこれ30分ほどむなしく孤軍奮闘したがけっきょくなんら成果を出せず、けっきょくさじを投げてしまう。その代わり、Discordで友だちから来ていたテキストメッセージに書きそびれていた返信を書くことで午前を過ごしてしまった。

Discordで仲良くさせてもらっている友だちで、英語学習仲間でもある1人がぼくのこの日記をまめに読んでくださっていてそれで「AIベースのチャットシステム(おかしな言い方かもしれないが、こうしたシステムを総称する言葉を思いつかない。『生成AI』だろうか)で英語を勉強するのはどうですか」と薦めてくださった。それこそポピュラーな「チャットGPT」といったものを使うと、そうしたシステムは実に的確に・すばやく見事な英語で返信してくれるので英語の勉強にうってつけだと言うのだった。

それで、友だちにそうして返信をしたためた後にそのチャットGPTやTwitter(X)が提供しているGrokを試してみることにした。ぼくなりにつたない英語を用いて、「もしドナルド・トランプが女性だったらこの世界はどうなっていただろうか」とか「実はなんにも質問が思いつかないんだがぼくはもう空っぽなんだろうか」とかそんなうつけた質問を投稿する(こういう時に、なんでもかんでもついついウケを狙うぼくの明石家さんま譲りの関西人気質が顔を出す)。するとそうしたシステムは実に詳細に・電光石火の早業でレスポンスを返してくれた。いや、わかっていたつもりではあったとはいえ実際にこうして付き合ってみるとやはりその賢さにはあらためて脱帽してしまったりする。

もちろん、まだぼくはこんな感じのAIのチャットシステムに触ったばかりでしかない。もっとこうしたシステムに慣れてみないとわからないことや見えていないこと、したがって仔細に語れないことなんて山ほどある。それは謙虚にならないといけない。システムの目覚ましい賢さの片鱗しかまだぼくにはわかっていない。だが、悲しいかなぼくは古くさい人間だからということなのか、たぶん若い世代やもっと革新的なマインドを持つ人たちのようにカジュアルに・自由自在には使いこなすことはむずかしいかなあとも思ってしまう。

というのは、これはあくまでぼくのいまの段階での皮膚感覚・生理感覚から語る見解にしかならないのだが(つまり、なんら他者と共有可能な論理ではなく「なんとなくそう感じる」としか言いようがないものだ)、それでもチャットシステムとそうして交わした会話はなんだか「機械的」で「奇妙」なフィーリングを感じさせるものであって違和感がぬぐえなかったからだ。いや、ぼくが先入観で目が曇っているからそんなことをしつこく感じるのかもしれない。それは認めたい。でも、人と対話する時はぼくは彼らの言葉だけではなくその「間」というか言葉と言葉の「すき間」が生み出す人間らしいリズムに居心地の良さを感じているのかなあ、とも思ったりしたのだった。チャットシステムの会話はたしかにすばやいが、裏返せばその「間」が読みづらいので思考回路というか思考のはたらき・プロセスを読みづらいところがあるのかなあ、と。それが違和感の正体なんだろうか。いや、まだわかっていないが。

これを書いているいま、ぼくは大好きなイギリスのテクノのグループであるアンダーワールドの楽曲群をSpotifyで流している。彼らの音楽は綿密に構築された機械的サウンドで、でもそれが(たぶんに彼らが生み出す肉体的・肉感的な「ノリ」も相まって)ぼくの本能にもたしかに訴えかけて、メロディアスなグルーヴやエロティックでさえある感情を喚起させ身体を踊らせる。こんな感じで、もっとそうしたチャットシステム特有のリズムに慣れることでぼくはそうした機械によろこびというか、悦楽を感じられるようになるのだろうかとも思ったりしたのだった。

そうしたAIベースのチャットシステムのレスポンスに慣れることが、はたして本質的にいいことなんだか悪いことなのか、どうなんだかぼくにはわからない。でも少なくとも、ぼくの感覚はこうしてチャットシステムと向き合うことでたしかに変わっていくのかなあとも思う。いい悪いの問題がはないのだろう。ちょうど、いまでこそぼくの日常に溶け込んでいるテクノ・ミュージックだって聴き始めたころはなんだか機械的で聞けたものではないとさえ思ったことを思い出すが、まさにそんな感じで。将来的には感覚が変わることで、そんなシステムを医師や看護師に見立てて(ぼくは古くさいのでついついここで「看護婦」と書いてしまいそうになる。恥じなければならない)毛づくろい的・じゃれ合い的なカウンセリングさえ依頼するようになっちゃったりするのかなあ、とも思ったりした。