今日は早番だった。今朝、実を言うといつもどおり眠剤を服用したはずではあったけれどもっと頓服など飲むべきだったのか、それともぼくのうっかりミスで飲み忘れていたのか、いずれにせよ3時間ほどしか眠れず中途覚醒のあとはまんじりともせず朝を迎えた。そうなると眠れなかったことにたいして不安がつのり、その不安とあとは根っからの怠惰な性分もあって朝の英会話関係のZoomミーティングもサボってしまう。でもだからといってゆっくり二度寝することもできず、けっきょく10時からいつもどおり仕事をはじめたはいいもののまったくもって仕事に対するモチベーションも湧かず、さながらガス欠の車のように空っぽの心のままうろうろ職場を徘徊して過ごすこととなった。職場から逃げたいとか、この町から逃げたいとか、あるいはもっと悪いことに「死にたい」とまで思った。俗に言う希死念慮というやつで、こうなったらあとはなんとかやり過ごすしかない(いまは大丈夫です。ごめんなさい! そして、ありがとうございます)。
希死念慮はそれこそ妄想(つまり幻聴や幻覚といったある種の「たわごと」)と同じなので、だから真面目に向き合っても時間をムダにするだけだ。でも、今朝はけっきょくその「たわごと」を振り払えるだけのできごとも起こらず、だから睡眠不足の頭をかかえたまま「なんで生きているんだろう」「なぜ生きなくちゃいけないんだろう」とも考えた。いや、書いていてこのぼく自身あらためて気が滅入ってきた。あまりにも「アブない」ことがらでみなさんもげんなりされたり、あるいは心配されたかもしれない。でも、この日記でもつねづね書いてきたようにぼくは基本的にネガティブで厭世的な性格の持ち主なのでこんな感じで衛星が惑星(だったか)のまわりを常にグルグル回るしかないように、希死念慮のことが頭につきまとって離れなかったりするのだった。
そこから派生して思い出したこととして、ぼくが高校生だったころに鶴見済が『完全自殺マニュアル』というそれこそ実に「アブない」本を世に問うたことがあった。文字どおりそれこそさまざまな自殺についてやり方を紹介した本で(もっと紹介すべきかと考えたが、内容をかんがみてこの程度に留めたほうがいいはずだ)、当時ぼくはすでにいじめに遭ったり生きづらさを味わったりして絶望的なアイデアに浸って過ごしていたので、だからこのマニュアルをあまつさえ買い求めたりしてしまった(いま思えばそこまで生きづらかったのだったら、ぼくはあのころから医師につながったほうがよかったのだ。精神科の門を叩くとかそれこそWAISを受けるとか。まあ、あとの祭りではあるが)。でもその10代のころ、心のどこかではぼくはもっと楽天的というか「ナメた」考えも同時に持っていた。というのは、大学に入るかなにかして環境がごっそり変わってしまえばこの生きづらさもいずれ落ち着くというか、ドラスティックに改善すると思っていたからである。すべては発達障害と診断される「以前」の話で、思えば世の中だっていまのように「発達障害とはなにか」とか真剣に議論したりしていなかったはずだ。
なぜ自殺してはいけないのだろうか。そのことについてあれこれ考えるが、ぼくには(あたりまえだが、ぼくは凡夫なので)なんらこの難問に「効く」「役立つ」答えを示しようがない。ただ、いま暫定的に・とりあえずの答えとして考えていることとしては「ぼく」がこのぼくの生死を決める立場にはないということかなあ、ということだ。「生きるべきか死ぬべきか」ということがらは(オカルト的な、あるいはたんにバカバカしい言葉遊び的な話でしかなくなるが)ぼくの中のなにかが決めるということになろうか。それをどう呼ぶべきかはわからないが、たぶんそれは言語化できないけどそこにあるとしかいいようのないもので、強いて言えば「肉体」「本能」「無意識」といったつかみどころのないものだ。それをぼくなりにひらたく言えば、食欲が湧くとか性欲を感じるとかいったぼくの中から「ぼく」を衝き動かすなにかがぼくを活かしている。なんだか申し訳ない。今日はこんな不条理で、それこそ「たわごと」を書くことに終始してしまうこととなった(これを書いている3月14日のいまはそんな「希死念慮」は感じていない。ただの睡眠不足が原因だったようだ)。
仕事が終わり、7時半より毎週恒例のZoomミーティングに友だちと一緒に参加する。日本語で他人(とりわけ外国人)になにかを伝達することがいかにむずかしいか、それゆえに「やさしい日本語」を使うことがいかにたいせつかといった話が主軸に据えられ、さかんに意見交換が行われる。楽しいひと時を過ごせたと思った。もちろん、終わったあとはそそくさと眠ってしまった。
