午後はそんなわけでまるっとベッドに寝そべり安静にして過ごす。ローソンで買った昼弁当を食べた後、しばし昼寝をしてしまうととくにやることもなく退屈して、そうするとイライラしてもきたのでぼくがここさいきん注目している書き手・若林恵のコラム集『さよなら未来』をパラパラめくるつもりが、1度読んだことがあったにもかかわらず実にこれがべらぼうに面白く感じられてけっきょく風邪気味の頭で読みふけってしまった(本にうながされて、マイケル・ジャクソンの往年の名作群を流して聞くともなく聞きながら読んだ。とりわけ『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』を中心に)。実にフレッシュな気持ちで読めておもしろかった。こんかいはある話題が目を惹く。いや、1度読んでいたからこの話題も目を通したはずだがすっかり失念してしまっていた。ぼくたちが日ごろ実にカジュアルにおこなっているしぐさである「書くこと」についてだ。
この本の中で、若林恵は日本の哲学者・鶴見俊輔が示した「書くことにかんする見解」を紹介している。鶴見・若林が言うには、書くことをとおしてぼくたちは心のなかで内的・私的な思索と公的・社会的な要素の出会いとでも言うべきものを経験している、ということになる。それはなにも社会的なことを書く場合にかぎった話だけではなく、私的で秘めた領域にあるぼくたちの思考のなかにすでに外部からもたらされた公的・社会的なエッセンスが入り込んでおりその意味でぼくたちはあらかじめ社会とつながっているというか、「社会化」された存在だと言うのが骨子だ(いや、ぼくのおぼつかない理解でどこまで彼らが繊細につづった見解をゆがめずに伝えられたか自信はないのだが)。
読み終えて、そのコラムは小文ではあったがあなどれない・刺激的な一文だと唸った。そしてぼく自身のことを考えてしまいもした。これは科学的根拠など示しようがない主観オンリーのことがらになってしまうが、ぼくはこのようにして公の場でぼく個人が感じた真実を書く(いや、その真実なんてかけがえがないどころか実のところ端的に陳腐だという考え方もあるが、いまはそんな議論に走る余裕はない)。その私的なことがらを書くことで、他人になにかをうったえかけられたら・伝えられたらと思って書いている。こうしたことを考え、かつ今朝おこなったような英会話やその他英語学習のいとなみについて振り返ると、ぼくはなんだかんだ言ってまだ社会においてコミュニケーションを続ける可能性を棄却・破棄出来ないのだなと思う。なんだかおかしな話に聞こえてしまうが。
いったい他の人たちはどのようにしてユニークな意味を書くことに見出して、そして意見をソーシャルメディアで書いているのだろう……若干めまいがしたり喉が痛かったりする中で、そのようなことをぼんやりと考え込んでしまった。このぼくの日記についても考えてしまう(思えば、今朝のZoomミーティングでもこの日記のことが話題になったっけ)。思えば、そんなだいそれたことなんてろくすっぽ考えたりせずにただ「垂れ流し」というか、とにかく海外にも日本にもいる友だちをメインにぼくの「生活と意見」を伝えたいと思って私的に始めたことだった。でも、それはいまや英語学習の練習の重要な礎になりつつあるようだ。
