病院で会計を済ませ、その後近くの薬局にてその漢方薬をふくめた薬をもらう。その待ち時間に、スマートフォンをいじるのも飽きたのでここさいきんカバンの中に突っ込んでいて折に触れて読み返していた鶴見俊輔『期待と回想』をあらためてめくる。その『期待と回想』の中で、鶴見はぼくたちのコミュニケーションの実相についてあらためて彼ならではの平易な語り口で解き明かしており、ぼくの理解力・語彙力ではなかなか要約しづらいもののそれでもなお啓発的に感じられた。なので、ふとここで読む手を止めて自分自身の過去を振り返る。ぼくもいじめに遭ったりその後も発達障害のせいでつらい思いをして、疑心暗鬼・人間不信に陥ったり孤独の果てにアルコールの底なし沼で死にかけたりしたものの、それでもコミュニケーションをあきらめきれなかった。いま、こうして英語や日本語であれこれ書いたり英語を学んだりしているのもそうした「あきらめの悪さ」「しぶとさ」ゆえのことだ。過去、クラスメイトたちと自分とのあいだに絶望的な「断絶」があり、そのせいで孤立して頭の中で死ぬことばかり考えていた日々が頭をよぎる。それはこのぼくの発達障害特性と、彼らがそうした特性をいまだ知らなかったことに由来する断絶だったと言える。
実を言うと昨夜、ぼくが参加させてもらっている自助グループのLINEグループにてぼくは魔が差してしまい、すこしばかり暴言を吐いてしまった。この公開日記ではその特性上さすがに書くことははばかられるが、職場であった実に世知辛い・不条理でトラウマにさえなっているできごとについてだ。そのことで、あくまで内輪のグループにて書いたことだからとはいうもののそれでもあとになって「あんなこと書くべきではなかったかな」とも思ったりしたのだったが(なにせあきらかに、われながら粗暴なコメントだったから)、それでもメンバーたちがそのコメントを受けとめてくださってシンパシー(同情・共感)を示してくださったのがありがたかった。いや、いまはもちろんジョブコーチたちもいるしグループホームの方々とも、他にもWhatsAppやLINEを通していろんな方々ともつながっていて幸せに暮らせている。そのあたりは安心してください。
午後になり、その風邪気味のコンディションのこともあって今日はそんなわけでひたすら部屋でおとなしくする。風邪の引きはじめの症状に効くという葛根湯を服用し(去年買って常備していたものが残っていて、期限をたしかめたうえで呑んだ)、その後しばし昼寝をしてからいくぶんか(熱はないものの)めまいが残る頭でベッドに寝そべり、J・D・サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』のページをめくって読むともなしに読んだ。実を言うと、ぼくはサリンジャーの良き読者とは言えない。いや、正確に言えば好きな作家だと胸を張って言えないというか、すくなくとも「愛読した」「むさぼり読んだ」たぐいの作家ではない。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が青春小説の金字塔と言われるとたしかにそうだと納得はするが、村上春樹ほど「寝食を忘れて」読んだわけではないのだった。でも、それでもいつだっただろうか、この『ナイン・ストーリーズ』とはじめて出会って劈頭の「バナナフィッシュ日和」のインパクトに衝撃を受けてからぼくは折に触れてこの短編集をエバーグリーンなものとして受けとめ、読み返してきた。
とくに、こんかいは末尾を飾る「テディ」が目を引く。早熟な天才少年のテディをめぐるスケッチのようでもありなんだか預言的・崇高な響きをも持つこの短編が内包する深遠で挑発的ですらある哲学的洞察と、それをいともかんたんに言語化する手つきにしびれてしまった。これはまったくもって誤読・妄想かもしれないが(ただ、ヨタ話としては面白いかなと思ってあえて書く)、ぼくから見ればサリンジャーの世界で特権的な役割を与えられる登場人物たちもまたたぶんに発達障害的なところがあって、たぶんにそれに加えてあまりにも繊細すぎ・賢すぎる頭脳を持っていることもあって「アウトサイダー(はみ出し者)」として生きることを強いられるのではなかろうかとも思った。悪ノリついでに言えば、その意味ではここにいてこれを書いているこのぼくもホールデン・コールフィールドやシーモア・グラース、テディといった人たちの系譜に連なるというか、子孫と言ってもいいのかなあ……とも。いや、さすがにぼくの頭脳のポンコツぶりを鑑みれば「不肖の息子」ということにはなると思うけれど。
