単純な生活

Life goes on brah!

2025/03/02 BGM: The Beatles - The Fool On The Hill

今日は早番だった。今朝、風邪気味の身体を押していつものようにシャワーを浴びて洗濯機をまわした後、英会話関係のZoomミーティングに顔を出す。毎週日曜日は「フリートーク」の日で、いつもなら日替わりのお題が提示されてそれにもとづいてぼくたちは英語でワイワイとディスカッションに興じるのだけれど今日はこれといってテーマがない日だった。そこで、まずぼくたちは目下世界的に話題になっているゼレンスキーとトランプのミーティングの話について皮切りとして話しはじめる。だが、情けないことにぼくの勉強不足ゆえにいったいあの2人の政治家たちがなにを話したのか、いったいなにがあの席で起きたんだかフォローできていなかったのでまったくもって話についていけなかった。そこでホスト役の方がぼくに話を振ってくださり、ぼくからお題を切り出してもいいとおっしゃったのでどうしたらいいんだろうと0.1秒ほど迷ったものの、「枯れ木も山のにぎわい」だと居直って昨日鑑賞した『プロジェクトX』の藤里町の取り組みの話をした。ひきこもり支援を念入りにおこなったことで福祉の可能性を見せつけた町の取り組みの話だ。すると、他の方々も興味を示してくださった。

もうカンのいい方はお気付きの通り、謙遜でも自虐でもなんでもなく残酷な事実を認めたいから書くが、ぼくは現在のところ大学に籍をおいたりあるいは在野で研究生活に精を出したりしている身分ではまったくもってない。ただどこにでもいる(はずの)しがない小市民にすぎない。だからいまもって好奇心あるいはひまつぶしで宮台真司大澤真幸などをめくったりすることはあっても、社会学的なことを真剣に学んだことなんてかけらもない。ぼくがこのひきこもり問題について(いや、たぶんもっとひろく取って社会全般・政治全般の話題について言えば総じてと言うべきか)語れることはしたがって、本やYouTubeやネットフリックス的なドキュメンタリーから付け焼き刃で学んだことではなくこれまでこのスットコドッコイな発達障害者なりに暮らしてきて体験・体得した経験が主となる。そのZoomミーティングのあいだ、ぼくは(どういう流れでそうなったのかは忘れたにせよ)自分が酒に呑まれていてゆえに未来にたいして希望を持つことも、人生において夢を持つこともまったくもってあきらめてしまっていた時期のことを話した。いや、なんだかあまりにも個人的すぎる・私的すぎる話ですくなくともいま思えばひきこもりとなんの関係があるんだかわからない(「直接的に」つながる話ではなかろう。ぜんぜんからまないとも思えないが、しかし一般論としてこうした私的な話を公的なポリシーに持っていくにはもっと段階を踏まないといけないかなあ、とも思う)。

10時から5時まで仕事をした後に自室に戻り、今日は佐伯一麦『社の日記帖』をめくったりして過ごす。ふと、前にも書いたかもしれないがぼくが所属させてもらっている、ぼくと有志が結成した哲学カフェのLINEグループにおいてその『プロジェクトX』が話題となり、そこから一般論としてひきこもり支援にどうした方途が有効か(別の言い方をすれば、どのようにしてあの番組を見きわめてぼくたちなりのユニークな異論を提示すべきか)といった話に花が咲いていた。ぼくたちはたしかに同じ志を持つが、それぞれのメンバーの置かれた背景(バックグラウンド)もいま生きている境遇も、趣味・嗜好もそれぞれ微妙に異なっている。だからたぶん「みんな一緒に」「一丸となって」といったことにはならず、時にこうした「きしみ」「不協和音(Discord)」も生まれる。でも、ぼくはそうして個々人がユニークさ・唯一無二の個性を発揮することが時に表面的には不協和音を生み出すことがあっても、それでもそれぞれのメンバーは相手を尊重・評価しておりそれゆえに誰もこのグループにおける「同調圧力」「群集心理」には呑まれないと信じたい。こうした個々人の個性とパブリックな世論・輿論の関係はたぶん(インターネットにはうといので間違っていたら忌憚のないご指摘をお願いしたいが)個々のサーバとインターネット空間(サイバースペース)の関係にも似てるんじゃなかろうか、とも思った。

それはそれとして、これまたカンのいい方はおわかりのとおりぼくは日本で暮らすただの日本人。したがって英語のネイティブスピーカーではないのだった。昼ごろに飛び込んできたニュースが気になってしまい、そのこともいまになって頭の片隅であれこれ考えてしまっている。そのニュースとはドナルド・トランプ大統領令を発令してアメリカの公用語を英語一色にさだめた、という話だった。いや、アメリカに住んだこともないのでこれがいったいどういうことを意味するのかわからないのだが(だからこれもまたしてもスットコドッコイな「政談」「珍プレー」になってしまうかもしれないが)、母国語とはその人のアイデンティティの基礎。そのアイデンティティがぶつかり合うことでアメリカの空気が醸成されていたのだとしたら、その空気は否応なしに――目立つかたちでなのか、ドラスティックに変わるのかはぼくにはとんとわからないにせよ――変わってしまうのではないか。いや、これにかんしてはほんとうにぼくはトーシロもトーシロ、ド素人なのでこれからいろいろ意見を聞いたり考えたりしないといけない。なんとも世知辛い(?)世の中であることよ。部屋の片隅でホコリを被っているベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』を読み返すべきかな?