それで、そのZoomミーティングが終わったあとどうするかしばし考えた。というのは、ここさいきんこの日記でもあれこれ書いてきためまいはさすがに時間が経ったのと薬が効いたのかどうなのか、いずれにせよ前ほどはしつこくなくなったので、それはそれでありがたいと思う。でも、今日は雪がうっすら降っていたことに加えてなんだか頭のうしろを突かれるような軽い頭痛あり(これを書いているいまはおさまっている。天候不順や自律神経にさわることでなにか、そんなかたちで身体が悲鳴をあげたのかもしれない)、そして外に出てなにか創造的なことというか生産的なことをやろうという気力もなくて、それでけっきょく今日はもう完全休養に徹することに決めた。図書館で若松英輔『岡倉天心「茶の本」を読む』という本を借り、ローソンに行ってそこで弁当を買ったくらいであとはもうひたすら巣ごもりして過ごす。実は今日は町の人権推進課が主催する露の新治氏をはじめとする落語を鑑賞できるのイベントがあって、たのしみにしていたのだけどそれもキャンセルしてしまった。申し訳ありません。
午後、その弁当を食べた後にぼんやりとピーター・ガブリエルなどを聴きつつベッドで横になって、そして若松英輔の本を読み進めていく。思い起こせば去年だったか(たぶん晩春のことだ)、英語研究会の席で参加者がくだんの岡倉天心の英語の文献『茶の本』を読む機会があった。さすがに岡倉天心の英語は古く手こずったものの、でもそこから見えてきたアジア文化(とくに茶道やその他の文化・風俗)をひろく欧米諸国に知らしめんとする天心の情熱にはこんなぼんくらなぼくであっても鬼気迫るものさえ感じ、感服さえさせられたことを思い出す。爾来、そんな感じで実に国際的な精神(マインド)を持って乱世を生き抜いた知識人たちに興味が湧いてきたりした。これまでそうした日本の知識人たちについてはなさけないことにノーマークだったので、これから読めれば読みたいとも思う。そこから、「いま」を生きている日本人、つまりこの愛すべき小さな島国で生まれ育ったアジア人の身としてどんなふうに世界と向き合うべきなのか考えられたらいいのかな、と思った。まあ、いつもの駄法螺みたいな話になるけれど。
ただ実を言うと、ぼくはこの日記でも書いてきたように根っからのひねくれもの・あまのじゃくなのでだから「1人はみんなのため、みんなは1人のため」的な理想をまったくもって信じられない。「カム・トゥゲザー(トゥゲザーしようぜ)」って言われても「そう言われてもなあ」としか思えないのだった。というのは、たぶんにまさにこのぼくという人間は少年時代や学生時代などにおいていじめられたりおみそにされたりした過去があって、むしろクラスメイトたちはこんなぼくをいじめることでまとまってさえいたようにさえ思うから、そこから「マジョリティ(多数派)はぼくのようなマイノリティ(少数派)をいじめることでこそまとまる」という偏見というか認知のゆがみ・ひずみが生まれたのかなと思うのだ。だから、そんな場ではぼくはまさに人間の皮をかぶったエイリアンだったというかなんというか(発達障害さえ抱えた、それこそ変な要素の「役満」状態というか。いや、麻雀はまったく知らないので用語の使用法を間違っていたらごめんなさい)。
それで、そんなトラウマに満ちた体験があるから自然とそんなふうにして多数派の人たちが「1つになろう」「一丸となって」と息巻いている時、その構図に対して「だが断る」「ほっといてくれ」「薄気味悪い」と思ってしまう性分が生まれたんじゃなかろうか、とも思う。もちろん、今朝方のミーティングの内容のおさらいをすると他人のためにぼくは時に協力的というか奉仕する姿勢を見せる(その「他人のため」がまわりまわって「自分のため」になる逆説めいた真理をもぼくはわがこととして理解できるつもりだ)。でも、それでもここにいるこのぼくがなにか大いなるものと合一を果たし1つになるという構図に対して「ちょっと待った」と言いたくなる気持ちがあることも事実だ。それはなんというか、はなはだ旧いものを引き合いに出してしまって恐縮だがそれこそ『新世紀エヴァンゲリオン』が示した自他の境界が溶けてなんだかわけがわからなくなるグロテスクな光景のようにしか見えない。もしくはそれこそ「八紘一宇」的な夢想でしかないんじゃないかな、とも。
ならば、人と人が溶け合って1つになる境地というか大いなる理想のもとに人が寄せ集まる崇高で宗教的な境地(まさに若松英輔の本が示さんとする境地、とぼくは読む。もちろん若松の本は幾重にも段階を踏み、実にていねいに議論を進めているのでぼくとしてももっと読み込まねばと思う)はどうとらえるべきなのか。それは夢想・妄想なのか。それとも、危険性をふまえてそれでもつながり合うことを目指すべきなのか。とかなんとか考え込んだりしつつ過ごした。ああ、なんだか休めたのかどうなのかよくわからない1日だった。いや、ムダと言えばムダな1日だったようだけど、でもムダに過ごしたからと言って自分をくよくよ責めたりするとますますサボりぐせが顔を出すとも言えるのだから、「終わり良ければ全て良し」「イージーゴーイング」でいいかなとも思った。
