仕事に入り、今日はなぜなのかはわからないけれどこんなことを考えてしまった。仮に、もう働かなくてもいいとしたらぼくはそれこそ「引きこもり」になるかどうか、引きこもって生きるかどうかというシミュレーションをしてみたのだった。日がな一日優雅に「食っちゃ寝」「クウネルアソブ」で過ごすかどうか……たとえば、それこそ宝くじが当たるなりどこかから大金がぼたもちよろしく転がり込んできたりして、それでもうそれこそ死ぬまで楽隠居・若隠居OKの生活が保証されてしまったとしたら。そんなことになったら明日からどうするかなあ、と。つまり、こんなある種たわけたことをそれでもそれなりに親身に・真剣に考えてしまったのはひとえにぼくが働く理由がなんなのか自分の中で見極めたかったからかなとも思う。同じ職場でかれこれ20年は働き続けてきた計算になるが、いまだにぼくの中ではその理由が言語化できていないのであった。
あれはぼくが30代のころだったか、宮台真司がらみの話題で意気投合した年上の知人がこんなことをアドバイスしてくれたのを思い出した。というのは、ぼくはもうそんなふうにまでして働く必要なんてなくて、それこそQOL(人生の「質」ですね)を高めるべくニートにでもなんでもなって生活保護をもらってのんびり・まったり暮らせばいいんじゃないか、と。そういう人生もある……いや、いまどき「生活保護をもらえばストレスフリーでウハウハ暮らせる」なんて考える人なんていないだろう。ぼくは生活保護を申請したことはないが、友だちがそうした生活保護に頼りつつ自分なりに人生の主導権(イニシアチブ)を握り自立した生活をすべくがんばっているのを知っている。ゆえに、もちろんぼくの無知からくる偏見・誤解はあるだろうにせよくだらない色眼鏡でそうしたライフスタイルを見るべきではないと自分に言い聞かせている。そしてぼくだって働けなくなればそうした制度のお世話になるんだろうと思う。話が逸れてしまったようだが、つまりぼくはいまだにどこかで「働かざる者食うべからず」と自分にハッパをかけないと生きられない時代遅れの人間なのかなあ、とは思う。どうだろうか。
ぼくが好きな……というわけでは実はないがそれでもその才能に畏敬の念を抱くアーティストであるモリッシーに倣って、仮にぼくがなんらかのかたちで「毎日が日曜日」的な人生を生きなければならなくなったとしたら、そうしたらどうするかなあと考える。これはぼくは答えられない。いや、ぼくはほんとうに移り気で気まぐれな性分なのでまったくもって自分のことなのに自分の生を計画立てて暮らすことも予測することもできやしない。でも、この発達障害ゆえのとてもADHD的というか多動性というか、とことん無駄にアクティブな性分がたたってなんだかそんなふうに働かなくてもよくなったとしてもなんかとてつもなくくだらないことをおっぱじめたりするのかなあ、とは思う。愛用している原付にまたがるか青春18きっぷを使うかしてどこかへトコトコ旅するとか、あるいはまったくもって対照的に引きこもってしまってマルセル・プルースト『失われた時を求めて』とか司馬遼太郎の大河小説とか、あるいは沢木耕太郎『深夜特急』みたいな長大な本をくりかえし読みふけるとか……書いていてなんだか自分がほんとに子どもじみたメンタリティの持ち主というか夢追い人であることに気づかされてしまうのだけど。
仕事が終わり、グループホームに戻って夕食をいただき、かねてより読んでいた本の1つである中島岳志『アジア主義』を読み終える。英語研究会で岡倉天心の『茶の本』や日本がアジア諸国にもたらした植民地政策(ならびに、アメリカの日本にほどこした政策)について学んだり本を実際にかじってみる機会があったせいか、このすばらしい力作を前ほど苦吟せずすんなり読み進められて内容をそれなりに深く理解できたかな、と自負する(本は積読であっても、いずれ読むべき時が来たら読めるものなのかなとも思った)。知られるように日本は悪名高き「八紘一宇」に代表される超国家主義(ウルトラナショナリズム)に基づき、もっぱら日本の覇権に基づいてアジア諸国を統一しようとした。それはもちろん、他者不在の自分勝手な横暴というものだろう。だが、ならば「アジア主義」という理想まで忘却してしまってもいいのか。このことについて、自分なりに深堀りしていかないといけないかなと思った。本書が参照している井筒俊彦なんかも読めたら読みたいのだが……と書いて、たぶん引きこもったとしてもこの「晴耕雨読」的な生活は変わりそうにないみたいだ。それがいいことなのかどうかはわからないにせよ。
