そんなめまいのする感覚にとらわれつつ、仕事中にあれこれ考えごとをしたりする。とりわけ、今日考え込んでしまったのはぼくがこれまで何度となく読み込んできた作家の1人たる村上春樹のことである。とりわけ、彼のデビュー作『風の歌を聴け』に登場する強烈なフレーズ「文明とは伝達である」という言葉が忘れられない。はじめてこのフレーズに接したのはぼくが高校生のころのことで、当時から生きづらさを感じてすがるものに飢えていたぼくにはこの言葉はぼくの思い・関心をまさしくこの上なくはっきり・明晰に「代弁」「言語化」した、いわば「殺し文句」のようにさえ思ったのだった。ぼくが他人に意見を伝えなければ(そうすることをあきらめて、自分の中でくすぶらせてしまったとするなら)、それは伝わったことにはならずしたがってぼくの中で過ぎ去ってしまい、そのままもう浮かび上がってくることもなくあぶく(泡)のようにはじけて消え失せるのだ、とかなんとか。
いま、ぼくはもうそれなりに酸いも甘いも噛み分けた老人に属する人間になった。そんなぼくから思うのはたしかにこのフレーズはある種の人たち(村上春樹の作品に出てくるような、たぶんに発達障害的な堅苦しさ・まじめさをこじらせた人たち)を代弁する強度をいまもって持っていて、ゆえに彼らがコミュニケーションでの困り感の中で感じている強迫観念のことを説明しているのかなあ、ということだ。いや、誇張しすぎというか大げさに響くかもしれない。また、人のことをとやかく憶測・妄想で言うのもよくないのでぼくのことだけに的を絞って書くとするならば、ぼくにとっては日々がまさに春樹の作品さながら不条理でシュールなのでそこでなんとかして生き抜くために「戦略」さえ練っているというのが実感なのである。コミュニケーションを生きるとは戦争を生きること……実地の戦争なんてもちろん知らないが、ならば「緊急事態」「非常事態」と言ったら伝わるだろうか。
日本では、それこそプロ・アマ問わずある種の批評家たちが春樹の作風や態度について実に口をきわめて仔細に・ボロクソにこき下ろしている。いろんな論じ方でこき下ろしているが、その切り口の1つは彼が実に内向的で自閉的で、自分の世界に逃避してそこに閉じこもり箱庭的な世界で自足してジャズや哲学・女性たちといったアイテムをはべらせて満足しているように見えるからというのがありうる(いや、春樹ファンたるぼくもこの見解をナンセンスと斬って捨てたくない。いまのような多様性の時代、とりわけフェミニズムを通した観点から読めば春樹は白人的でマッチョな世界しか描けてないという批判もたしかだろう。それは認めたい)。でも、それについて詳述する余裕はないけれどぼくにとっては彼は彼で「闘争」を続けコミュニケーションの不条理を生き延びていまもなお創作を継続している、と信じられるのだ。ファンの贔屓目だろうか。いや、そうかもしれないのでもっと考えていきたい。
夜になり、毎週木曜日恒例の友だちとのZoomミーティングに参加する。そこで、ぼくたちは雑談に興じたのだった。どんなことに関心を持っているか、どんなことが気になるか。前にこの日記で書いたドナルド・トランプやイーロン・マスクのこと、あるいは中居正広とフジテレビの問題がはらむ「MeToo」と共通しそうな図式のこと、ロサンゼルスの火事がどうなったのか、ミッシングチルドレンの問題や国境なき医師団の人たちが語学をどう学んでいるかといったことを教わったり話したりする。月末にぼくがまたプレゼンテーションをすることを誘われて、ネタがないのであれこれ考え込んでしまっている……グループホームの管理者・副管理者の方々と行っている財政管理(いや、たんに給料や生活費の腑分けと出納管理)、あるいはさいきんはじめた日々の記録のチャートのことを話すのはどうかなと思った。もしくはどんな英語学習をしているか、とか(英語関係のZoomミーティング、英会話教室、英語研究会、などなど)。ただ、急いてはことを仕損じるともいう。もっとあれこれ考えたい。
