単純な生活

Life goes on brah!

2025/02/01 BGM: John Lennon - God

今日は早番だった。たぶんこれは誰もが感じるたぐいの感覚だとも思うのだけど(あえて誰も言葉にしないだけで、みんなこうしたことは少なくとも1度か2度くらいは経験していると思う)、今日午後に休憩時間に入る直前にふと歩いていて、ぼくは眼前に広がる光景がとてつもなく偶発的というか奇跡的な現象のように感じられ、それにほとんど震撼すらしてしまうしまつだった。というのは、端的にぼくがすれ違った人たちや目の前を通り過ぎていく人たちの中にその人たち特有のかけがえのないエゴというものがあり、自由意志があり尊厳があり、それぞれの人たちがユニークな人生を生きているということを「身体で」、あるいは「脳に直接『くる』ような感覚を以て」知ったからと言えばいいだろうか。いや、よりによってなんでこんな感覚を今日みたいな取り立てて特徴のない日に感じてしまったのかぼくにはさっぱりわからないが、でもなんにせよそうした感覚から思ったのは「ぼく自身にも」そうした自由意志や尊厳、もっと言えばユニークさが内在しているのかなあという感慨だ。そこまで話を広げなくとも(?)、はっきりしているのはぼくがこうして生きており身体がそれ相応にぬくもりを持ち、頭も働き友だちもまわりにいていまなんとか幸せな暮らしを遅れているという事実だ。そんなことを考えると、またしても(ワンパターンで恐縮だが)過去のつらかった少年時代・青春時代へと考えが帰っていくのだった。とりわけ、友だちなんてどこにもおらず孤独をかこつしかなかった10代、あやうくカルト的な思想・理想にはまりかけた時代のことを。

昨日、ぼくは自分の日本人としてのアイデンティティのことについて考えて、そこから途中になってしまったがぼく自身の過去の時期のこととしてそうした自分の中にある日本人らしさが認められなかったことを書いた。それとつながるかどうかはわからないが、今日はぼくはそこからそうした病的な自己嫌悪のきわみ・帰結としてそうした10代のころに周囲が愚かしさというか「衆愚」「意識の低さ」「民度の低さ」を見せて恥じないように見えたことを書きたい。「自己嫌悪のきわみ・帰結」と書いたが、言いたいのはそのようにして周囲をこっぴどく・容赦なく批判することでぼくはぼく自身の中でどん底にまで落ちていた自己評価を高めたかったということである。周囲をこき下ろすと、その周囲と自分との相違が浮き彫りになり相対的に底上げされる、という(ごめんなさい。なんだか今日はむずかしいですね)。当時、つまり高校生だったころぼくは実に排他的で極端な左翼思想にのめり込み彼らの「正しすぎる」理論や理想を金科玉条のものとして暗記するいきおいで生きていた。そして、その理論や理想にのっとって周囲を裁断し論破さえしようとこころみた(言うまでもなく、実に非人間的で論理的すぎるいとなみである)。いや、もちろんとんだお笑い草以外のなにものでもなく、ぼくだって当時のことを思うといかに若気の至りとはいえそれこそ「穴があったら入りたい」ともいまもって思う。が、だったらいまはそうした誘惑と無縁なのかというとそんなことはなく、いまだって「正しさ」「無謬性」をきわめんとする指向性が持つ魔性の魅力に屈する瞬間がありうるのも事実だ。

昼休憩のあいだ、たまたまなにかのはずみでエモーショナル(感情にうったえかける)と称されるジミー・イート・ワールドなどの曲を聴いてくつろいでいた。人から見てぼくがどのように映るかぼくにはわからないけれど、実際のところはぼくはとうていそんな理知的・論理的な人間なんかではありえない。ぼくの中にはかくじつにデタラメな感情がいついかなる時も煮えたぎっていて、それが始終ぼくを突き動かしてまったくもって理屈に合わない・めちゃくちゃな行動に誘う。自分が明日なにを考えているのかぼくにはまったくもってわからないし、昨日のことだって「宵越しの銭」よろしくきれいさっぱり忘れるしまつだ。だから、そんなデタラメさを許せなかったというのがあって(さっき書いた自己嫌悪と、あるいは発達障害特有の非現実的な堅苦しさ・几帳面さがあいまって)、ぼくは過去そうして論理を感情の上位に置いてなんとかして理知的に生きたいとか、それこそ「思考マシーン」「論理機械」あるいは「アンドロイド」のように生きたいとあがいたのかもしれなかった。もちろん、ぼくにそんな芸当ができるわけもなくこのことでもさんざっぱら赤っ恥をかいてしまったのはご推察のとおりだ。

そんなふうにして悲しき「思考マシーン」を気取ってひたすら恥をかいていたころ、とりわけTwitterなどのソーシャルメディアで「言論の自由」「自由闊達な議論」を楽しむとうそぶいて他人を「論破」するのに汲々としていたころのことをも思い出す。なんともまあ。これはなんだか「トーン・ポリシング(言い方だけをきびしく・口やかましく取り締まる警察的な態度)」と言われそうだが、ぼくはいまはそうして言い方というか語り口において自分らしくデリカシーを持って他人に効果的に伝わるやり方を追求したい、と考えている。もちろん論理的な剛直さ・正確さをきわめて相手に異論をぶつける率直さを礼儀として保持したうえで、である。論理と感情。ロジックとパッション。この両者のバランスの取り方はたぶんぼくにとって「永遠の課題」なんだろうと思う。ああ、自分のなかの「日本人としてのアイデンティティ」の話をするはずが今日は脱線しておかしなことになった。ほら、こんな人間が機械になれるわけがないじゃありませんか。