単純な生活

Life goes on brah!

2025/01/31 BGM: Japan - Quiet Life

今日は遅番だった。今朝は8時間ほど眠れて気分的には申し分なく、いつもどおりイオンに行きそこで施光恒『英語化は愚民化』の読書を、石野卓球のソロ・アルバムなどを聴いたりしつつ満喫する。実に刺激的で挑発的ですらあるタイトルを持つこの本については、買い求めた当初はぼく自身なんだか「反動的」な意見ばかり並んでいるのではなかろうかとやや警戒していたところもあった。だが、虚心坦懐にぼくなりにあらゆる偏見も捨てて読んでみるとこれが実におもしろく、内容もうなずけるものばかりで目からウロコが落ちる瞬間もあり「侮れない」と思った。この著者の立ち位置はかくじつに「ぼくたち」のとなりに存在する身近なものだと思った(施光恒の文体はやや堅苦しいが、少なくとも内容的にはそうした「あたたかいハート」を感じたと言えばいいか)。つまり、「普通の人々」というか「庶民」(「エリート」「富裕層」の対極に位置しうる「ぼくたち」)の側に立ち、そこから常識的な感覚と豊かな学識を駆使して「英語化」という潮流に一矢報いてやっつけようとしていると感じたのだった。

何度でも書くが、ぼくはただ日本で日々のんきに暮らしている一介のしがない小市民・庶民であり、批評家でもコメンテーターでもない。ましてエリートなんかであるわけがない。そこから見える景色としてわかることを率直に書かせてもらうならば、施光恒が記すように「英語化」という概念がいまの日本で実に「強迫的」「ストレスフル」にぼくのような人々を追い詰め、そそのかしているのは事実であると思う。施光恒はそうした「英語化」の潮流・動きについてそれが悪名高き「ネオリベラリズム」に由来するものと位置づけんとする。つまり――ぼくは政治・経済については謙遜ではなく「トーシロ」なので我流の解釈を書きなぐるが――富裕層や支配層に都合のいい、富めるものがますます富むメカニズムがあってその不平等なメカニズムを「英語化」が補強し・加速さえして、ぼくたちを「英語ができる人」「英語ができない人」に極端に分断していくことになる、ということだ。もっと施光恒のこの本を味読して、そしてこの分断とどう向き合うか考えたく思う。

その後、読書で加熱しヒートアップした頭を冷ますべく気分転換を図る。イオンの中にある未来屋書店を冷やかし、新潮文庫で出ていた燃え殻の新刊を買い求めそしてふと週刊誌のコーナーを見たら、『AERA』の最新号が英語学習のメソッドやヒントを特集して載せているということを知り、さっそくいそいそと買い求める。そして、仕事までの待ち時間にさらりとその特集だけ目を通したのだけどこれもまた実に興味を惹くものだった。なんで英語なんて勉強しているんだろう、とその記事を読み終えたあと考え込んでしまう。いや、1つ言えること(正確に言えば、いまふと脳のバックサイドで思いついたというか「でっち上げた」ような即席の理由)としてはやっぱり外国で起きていることを学びたい、というのがあるのかなと思う……と書いて、違うかなとも思った。「世界の趨勢・トレンド(むろんこの日本で起こっていることもぼくにとっては『世界情勢』だ)」を英語という別様のフィルターというか表現様式をとおして学びたいというのがあるんだろうか、と。そして、英語を学ぶことは自覚されることとしてたしかにぼくのパーソナリティをそれなりに豊かに耕して、そしていろんなことをぼくなりに理知的・理性的にとらえられるようにしてくれたかなとも思ったのだった。

その『AERA』の特集記事の1つに載っていた情報(ファクト)として、日本人の英語力がある調査からわかったこととして他国と比べて相対的に格下であることが挙げられていた。そこから見えることとして、日本人は世界に自分のユニークな意見を表明しうる国際人となるべくもっと英語と虚心に向き合う必要があるのではないか、と問題提起がなされていた。たしかに英語学習が重要であることはわかる。大筋において上にも書いたように、この特集記事は良心的でぼくもお世辞ではなく大いに啓発されるところがあった。だが、私見を述べさせてもらうならばたぶん英語・日本語を問わずそれぞれの人たちの使いやすい言葉(あるいはそれぞれの人たちの思考の根幹をなす言葉)において意見を注意深く・如実に言語化」する修練・訓練が必要なのではなかろうかとも思う。そしてそれを他者に語り、そして自由闊達で有意義な対話(コミュニケーション)へと結びつけていくのが肝要ではないかなあ、と。

5時になり、いつもどおり休憩時間に入る。そこで、今朝方英語で書いたメモを振り返る作業をして、そしてふとぼく自身のこの日本人としてのアイデンティティをどうぼくが築き上げられてきたかを自問自答する。そしてそれをどう他者と語らい、他者のナショナリズムや引いてはアイデンティティを寛容に受け容れたり、場合によっては反論・拒絶したりしたのかについても。たとえばぼくは椎名林檎「NIPPON」に代表される「ニッポンすごい」という主張に強烈な違和感を持つ。もっと言えばぼくの皮膚感覚としてとうてい受け容れられない。もちろんこれはぼくの狭量な人間性の現れなんだろうと思う(椎名林檎や、もっと言えば他のさまざまなアーティストがそうして「国威高揚」「ナショナリズム」を主張する際はどうしたってそこに「パフォーマンス」「戦略性」の要素もはらまれているはずで、そこまで考えないといけないとも思う)。だが、ぼくはへそ曲がりのあまのじゃくなのでどうしたって発達障害者として集団(マジョリティ)からはじかれてきた歴史を思い返し、だから「同胞意識」を誇示する人に「ホンマでっか」と確認したくなるのである。このことはもっと考えてみても面白そうだ。