寒かったがよく晴れた日だった。シャワーを浴びて朝食を済ませて、Discordで英語でチャットに興じたりした後に、今朝はグループホームの本家に赴いた。副管理者の方が出勤しておられたので、さいきんぼくの生活(職場や私生活などにおいて)で起こったことをあれこれ話す。予約などしておらず文字どおり飛び込みでお会いしたのだけど、副管理者の方は貴重な時間を割いて向き合って下さった(実にありがたい)。前にあったジョブコーチ面談のことや職場でしつこく感じてしまう強い不安のこと、英会話教室や英語研究会のことなどを話したりした(この日記でも書いてきたことだ)。その後、グループホームの食堂を使わせてもらい一種自習室としてそこで英語でメモをあれこれ書かせてもらう。いつもはこうした作業はイオンでやっているのだけど気分を変えたかったのだった。AORと称される珠玉の名曲たちを聴きつつ、さわやかな晴れた日の午前をメモパッドに英語であれこれ書き書き過ごした。
さいしょはなんだかそうしてメモを書いていて落ち着かなかった。というのは自分がなんだか「エアポケット」の中にはまり込んで、他人や外界から隔絶されたような孤立したような、そんな気分を感じたりもしたからである。おかしな話で、いまはグループホームの方々や自助グループの方々、英会話教室やその他英語学習を介して知り合えた方々とのコネクションに支えられて自分が成立しているという端的な事実がある。それはゆめゆめ忘れるべきではない。だが、理由はうまく言えなかったのだけどそんな「気分」「不安」が生まれるのはひとつには過去のぼくのトラウマがあるからなのかなあ、とも思ったりしたのだった。つまり、幼少期や思春期というぼくの人格形成期がそれこそ「戦場」「非常事態」を生きているような殺伐とした感じで、そこから刷り込まれた人間不信や実存への不安といったものがいまだしつこくこびりついているんだろうか、と。今朝の副管理者の方との会話で、ぼくと世界のあいだにはその会話が象徴するようなスタッフや友だちとの「絆」「つながり」というものがあって、だからあとはこのぼく自身が時間をかけて「慣れて」「快復して」いくことが肝要なのかなあとも思ったりした。なんにせよ、小説執筆や駒沢敏器の本『ボイジャーに伝えて』の読書などやりたいタスクはあれこれあったが慣れない環境にとまどったかあまりはかどらず、ただ英語のメモを書いて午前中は終わった。だが、それはそれで得難い時間だった。
1時になって、今日の仕事をはじめる。休憩時間に入ってそこで放心状態のまま、ふとWhatsAppを開く。友だちがさまざまにメッセージをくれていて、そこで話題のDeepSeekについて教えてくれたりあるいは中国のお正月のことなどシェアしてくれていた。その中の1つで、日本人の友だちが目下進行中のフジテレビと中居正広のスキャンダル報道について彼自身の私見を教えてくれていて、それに目が行く。彼自身も目撃したこと・他者の体験談として聞いてきたこととして「セクハラ」「パワハラ」が過去まかり通る時代がありえたこと、そこでそうしたハラスメントの犠牲者・被害者になりうる人たち(ことに女性たち)がどう生き延び・戦ってきたかについてを教えてくれた。それを読みつつ、たしかにこのスキャンダル報道から浮き彫りにされている問題として男女の関係の非対称性というものなのかなあ、とも思う。いや、ぼくの語彙力の関係でムダにむずかしく書いてしまったが要はぼくも男として無自覚・無意識にバカげた(「冒涜的」ですらありうる)ハラスメントに加担した可能性もありうるし、それを都合よく忘却していることだってありうるという話だ。そうしたぼく自身の「加害者としての歴史」にどう向き合うか。いまからできることはあるか。そんなことを考えたりもした……。
