その後、それからもさまざまな奇縁が奇縁を呼びこの町のNPO法人のグループの方々とつながる偶然を得られ、そして自分でも自助グループの結成に立ち会わせてもらった後にこの国の福祉のシステムに本格的につながることとなる。グループホームの利用が縁で実家を離れ、そしてジョブコーチの制度を利用させてもらうことで自分にとっての仕事の意義を見つめ直すこともできた。高村光太郎ではないが、ぼくの前にはっきりした道はなかった。自分で自分の道を切り拓き、ここにいたるまでの苦闘(というほどのものでもなかったかな?)を生きてきたのかなあ、と思う。それがこれからも続いて、後続の発達障害者の方々が自分らしく生きるための参考を作り出すことにつながるのかな、とも。
そんなことをあれこれ考えた後、昼休憩の時間をいただく。その時間になって、パック寿司をつまんだあとある友だちから送られてきたLINEのメッセージを読む。現下起こっているさまざまなできごとが世界を悪くさせているのではないか、という(ぼくとしても共感できる)嘆きがそこに吐露されていて、それについて考えさせられてしまう。とりわけ昨今のスキャンラダスなできごとについて(これは異論を呼ぶだろうが、トランプ再選にまつわるゴタゴタがその筆頭となる)。そのメッセージにさそわれてぼくもいろいろネットでニュース記事を検索し、そしてかのイーロン・マスクにまつわるニュースの記事を読む。彼がナチを連想させるポーズを公の場で行ったことがBBCニュースのサイトで書かれており、マスクが発達障害者である事実が参照されていることが興味を引いた。いやもちろん、その記事はこのマスクの奇行について発達障害者であることをすべての原因として位置づけさせていたわけではない。だが、もしこの記事やひいては他の報道が原因でぼくのような発達障害者たちに「反動(俗に言うバックラッシュ)」が来たらどうしようかなあ、とも思ったりした。
Discordの日本語・英語の言語交換のグループ(サーバ)にて、そんな不安というかぼくなりの憂慮を英語でコメントとしてしたためた。そして投稿したのだけれど、すぐさまさまざまなユーザーが正直にそれは考えすぎ・勇み足だと言ってくれたのがありがたかった。とりわけ、それがマスクの発達障害者としての特異なキャラクターからくるわけではないとはっきり言ってくれたことがうれしかった(彼らのまわりの発達障害者たちはそんな物騒な・物議を醸すポーズを公の場で取ったりしない、と断言してくれたりもした)。それで落ち着くことができた。でも、これを読まれているみなさんにあらためて言うならばみなさんは自分の意見を持つことができる。自明の理ではあるが記しておきたい。それがぼくの意見とは真逆のものであっても。
ぼくが言いたいのは、こんなふうにデジタル化され加速されてすべてが「最適化」された時代、そんな時代であっても堅実な議論の中に潜む可能性というか潜在能力を信じるというか「賭ける」気持ちを捨てたくないということだ。そうした堅実さがやがてはニーチェ言うところの「鳩の歩み」で世界を変えていくのだとも信じる。言い換えれば、ぼくはどうしたって「改革」というか一方的な「圧」によってすべてをドンガラガッシャンとひっくり返すやり方を生理的に信頼できない。たぶんこれは本能であり、したがってロジカルシンキングから導かれた意見ではない。そういう「ドンガラガッシャン」とひっくり返すやり方が起こったら真っ先にぼくのようなトロい・どんくさい人間ははじき飛ばされると思うから、そういう熟慮や熟議を好むのかもしれない。時代遅れもいいところだが。
夜になり、夕食のキムチ鍋をいただいてその後友だちとやっている毎週恒例のZoomミーティングに参加する。そこで、近隣の市の歴史について友だちがプレゼンテーションを行われたのを楽しむ。彼の語り口はとても明快で、内容も微細で示唆に富むものだった。縄文時代・弥生時代にはじまりいまに至るまで、先祖たちの暮らしぶりといったものがどういうものだったかありありと想像でき、それまで教室の中で学んだだけのブッキッシュな歴史とこのプレゼンで学んだ生きた歴史が溶け合って1つにミックスされたような、めまいすら感じる瞬間を味わえた。とてもブリリアントなひと時と思う。ありがとうございました。
