単純な生活

Life goes on brah!

2025/01/14 BGM: Rodriguez - Street Boy

今日は早番だった。今朝はひとくさり、こんなことを考えつつ仕事をしていた。さんざっぱらこの日記で書き散らしてきたことだけど、ぼくは33歳の頃に自閉症者(俗に言う「発達障害者」)と診断された。それについて思いを馳せるうちに、過去にこの興味深い症例・現象を研究された人たち(それこそレオ・カナーやハンス・アスペルガー、あるいはのちのローナ・ウィングといった人たち)はこのアイデアをどう捉えて・あつかっていたのだろうか、と。なんだかいつもながら回りくどくなってしまったけれど、要するにぼくが言いたいのはこの概念を研究することがぼくのようにまさに自閉症という困難で苦しんでいる人たちを助けるかもしれないと思って、それで研究にいそしんでいたのだろうかということだ。れっきとした(?)日本人の自閉症者として、そして過去にこの概念を強迫観念として抱えていてそれゆえに憎みさえした人間として、別のことを考えてみようとしたりもしたのだけどしつこく考えはこのアイデアに戻っていったのだった。この概念の周りを、月が地球の周りを回っているようにグルグルと。

ぼくは基本的には、大学で研究職に就いているわけでもなく在野でこつこつ献身的・真面目に勉強しているわけでもない、ただのしがない小市民・一個人に過ぎない。だが、そんなトーシロのぼくなりに思い浮かぶのはいまから10年前だっただろうか、姫路のジュンク堂書店の店先でなんの予備知識もないままに見つけて買い求めてしまったスティーブ・シルバーマンの大著『自閉症の世界』だった。日本では講談社ブルーバックスから翻訳が「抄訳」として刊行されているようで、信頼できる情報源によるとこの翻訳は問題もそれなりに孕んだものだそうだが、それでも少なくともぼくがこの本から自閉症というふしぎな現象・事実についてたくさんのことを学ばせてもらった事実は揺るがない。なので、原著(英語のペーパーバック)を読まんとこころみて、それで半ばまで読んでメゲてしまっている。また気が向けば再チャレンジしてみたい。

自閉症というのはやっかいなもので、それゆえにあきらめてしまったことは山ほどある。たとえば、ぼくは雑談ができない。運転免許証は持っているが車は運転しない(これもあきらめてしまった)。障害者雇用で働かせてもらっているので人並みにフルタイムで稼ぐことだって逆立ちしたってできない。したがって経済的に自立することもできないので、さまざまな福祉のシステムやグループホームなどの施設のヘルパー(ケアラー)の方々と信頼できる連携関係を保ちつつ暮らしている。口さがない人たちはこんな生活を典型的な「最底辺」と言うかもしれない。まあ、そりゃそうなんだろう。でも、やましいことをしているわけではないから無視するまでである(でも、たまにはランチで1000円くらい使いたいなあ、と思うことはあるのだが)。

そんなぼくが偏見も交えて思ってしまうのは、そんな発達障害の概念(もしくは俗に言う「被害者意識」や「自分が弱者であるという意識」)というものがこの多様性の時代にあってもなお(あるいは、そんな時代だからこそ反動的に?)「排他主義」として働く可能性があるということだ。自分たちの生活・人生がどう悲惨か、どうたいへんで他人のことまで考え・おもんばかるゆとりなんて持ちえないか語ることに汲々とするあまり他人の口添え・アドバイスを聞く寛容さを失わせているのではないか、と。いや、これはむろんぼく自身にも跳ね返ってくることでもある。ぼくの場合はその発達障害に加えて就職活動で辛酸を嘗めなければならなかったロスジェネだという自認もあるので、そこから「ぼくは社会によって産み落とされた犠牲者・被害者なのだ」という意識(強迫観念)に取り憑かれていて、そこからなかなか出られず苦労したものだ。たぶんいまはそこから解放・釈放されたのかなあ、とは思ってるがどうなのだろうか。

昼休み、お弁当を食べた後にぼくがことのほか大好きな・印象深い映画『シュガーマン 奇跡に愛された男』のサウンドトラックを聴く。ぼくが書き続けている短編『ビジターズ』の続きを書こうとしたが、なんだか気が乗らずまだまだ締め切りまで時間はあるし、なので「ま、いいか」と思ってやめてしまった。木曜のZoomのプレゼンテーションも結局資料も作れずじまいで終わりそうだ(申し訳ありません)。なんたるか。仕事終わり、自室に戻ってブリの照焼をいただき、その後もだらだら疲労困憊した身体を休めることに努め、横尾忠則の『横尾忠則千夜一夜日記』を読みふけって時間を過ごした。