それで、こないだ書き出しを書いてタイトルもなんとか暫定的に決まったということでプロットを少しばかり組み立てるべくあがく。大まかに、この作品のテーマというか背景にある概念が「孤独」ということになるのかなと思ったりした(と書いていて、なんだかまだカタチにもなっちゃいないというのにはやくもエラそうにあれこれ「ホラを吹く」のもみっともなくて赤面してしまうが)。「孤独」と言えば、たとえばぼくにとってこれまた偉大な先人の1人であるアメリカの作家ポール・オースターの作品が思い返される。『孤独の発明』『ガラスの街』『ムーン・パレス』などなど。そういった作品から、ぼくは都会という一見すると孤独とはなじまないシチュエーションにおいて、それでも(まわりに人がたくさんいることが、逆説的に孤独感もしくは離人症的感覚をふくらませるというのか)孤独を感じざるをえない心理をたとえば主人公の心象風景の描写などから学んだかな、と思う。
ぼくが若かりし頃(この日記でもくどいくらい書いてきたことをまたなぞるのだけど)、当時はいまより「男であること」がもっと抑圧的な響きを帯びていたので、したがってすぐ泣いたり弱音を吐いてしまっていたぼくは「弱虫」と言われて先生や女の子からも嫌われて、そのせいで「強くならないと」「タフにならないと」と思い込んでずいぶん無理をした。痛みをこらえてなにもかもグイと呑み込んで、孤独にも耐えられる男になるんだとあがいて……そして、そう実践したりもした。その実践の果てにぼくは毎日毎日浴びるほどビールを呑まないとやってられない依存症になってしまい、そうして実家で1人で呑んだくれることで文字どおり悩みごと・憂さを完全に頭から「飛ばそう」「消し去ろう」ともした。いまもお世話になっている職場は環境が特殊で、ぼくがグループにおいて唯一の男性の従業員だったので悩みを分かち合ったり愚痴を言い合える仲間なんておらず、そうした女性のスタッフから同情・親愛を示されることもなかったのでより孤絶・孤立を感じることとなった。いや、これらはすべてジョブコーチと出会う前、なにもかもあきらめて希死念慮さえ抱えて生きていた時代の話だ。あのころと比べると会社だって変わったし、ぼくも変わったと言えるかもしれない。
いまでも、他のスタッフの方がぼく抜きで、ぼくが必死で作業しているのに雑談に終止して無駄口を叩くのを見るとなんだか複雑な気持ちになる。いや、それはいじめとかぼくを無視するとかそんなことを意味するのではないことは「頭で」わかる(もしくはそう「理屈において」納得しようとぼくなりに日々努力している)。でも、それでもなんかバカにされているというか、バカを見ているような気もすることを禁じ得ない。たぶんそれはそれこそ文字どおり、ぼくの中にあるトラウマ……というほど深刻ではないにせよそれでも暗い思い出とつながっているからかなと思う。ぼくが若かった頃(とりわけ10代の頃)、入った放送部でコケにされてから「もういいや」「生まれてきたことが間違っていたんだ」と思って、それで教室の中でそれこそ自分を殺してしまって、死んだふりをして生きていたあの頃のこと……そんな時期、たしかに肌で「孤独」「孤絶」を感じ、自分がエイリアンになった気さえしたのだった。それこそ村上春樹や高橋源一郎や吉本ばななの本などをむさぼり食うエイリアンに。
夜になり、歯医者で診療を済ませた後に自室に戻り夕食をいただく。その後、毎週木曜恒例のZoomミーティングに友だちと一緒に参加してあれこれ楽しむ。こんかいは雑談ということで、それぞれの参加者が年末年始の時期にどう過ごしたかを話して、それから市で今後どんなイベントがあるかなどを話し合う。実は来週、晴れてぼくが発表をするように依頼されていたのだけれどそんなこんなで小説のことを考えたりその他私生活のあれやこれやでバタバタしていたりして、なんら準備ができていないことを告白せねばならない。ああ、新年早々恥ずかしいことだ……だが、語れるならさいきん読んだ奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』というミステリから夏目漱石について話すとか、あるいはまったく違うトピックになるのだけどスチャダラパーの曲から「国際化」「グローバル化」ついてぼく自身が思っていることを手短に話すとか、そんなことも考えたり考えなかったり。ともあれ、またしても自閉症的な・ぼくらしくスットコドッコイな1年の始まりを感じる日となった。