ミーティングが終わって、職場に赴き今日の仕事をはじめる。仕事に入る前、職場のトイレで小用を済ませている際にふとあの難解きわまりないマルティン・ハイデガーが『存在と時間』なんかで喝破した思考を文字どおり「まるっと」理解できたような気分に陥る。もちろんそんなことあるわけもなくすべてはただのよくある錯覚に過ぎなかったのだけれど(ひと口で言えば脳の「バグ」「誤作動」だ)、ともあれそんな感じのバカげた錯覚について「ぼくもまだまだ修業が足りないなあ」とあれこれ考えているうちに思い出したことがあった。というのは、ぼくが過去に大学生だった20代のはじめのころ、実を言うと当時は哲学についてぜんぜん・まったくもって関心を持てなかったのだった。いや、正確に言えば物見遊山で柄谷行人や蓮實重彦なんかをめくってみたことはあるが(『必読書150』や『探究1』、『逃走論』や『存在論的、郵便的』『斜めから見る』なんかを読んでみてさっぱりわからずメゲたこともあった)、当時熱心に論じられていたドゥルーズやデリダについても「なんかものすごくむずかしいんだろうな」「フランス語もできないし、わかるわけもないだろう」と最初から敬遠してしまっていた。40になり、元ジョブコーチとお会いしたあとにその方からぼくの考え方が哲学的と言われ、それでそれ以前から宮台真司や保坂和志、田中小実昌なんかをつまみ読みして哲学的な考え方に惹かれたりしていたのでウィトゲンシュタインのガイドブックなんかを自分なりに紐解くところからはじめていった。
40になる前、つまりそんな「深い(?)」本を読みはじめる前……とりわけ20代、さっきも書いた柄谷・蓮實や東浩紀以外にも永井均や中島義道や土屋賢二なんかを読んだりして、彼らはもちろん(いや、なんらイヤミなんか込めるつもりはなくマジで書くが)興味深い・深遠な言葉を記していた。そこから学ばされたこと・いまでもぼく自身役立てられている知識はある。でも、それらはぼくを救ってくれる言葉ではなかった。ぼくの脳みそが古くさいからか、現代的でキャッチーな哲学よりはサルトルやカミュなんかの実存主義、ハイデガーの存在論、ウィトゲンシュタイン的な言語哲学に惹かれるのかなあと思う。いや、もちろんぼくはさっきも書いたがしょせんはしがないトーシロであって逆立ちしたっていまからドイツ語やフランス語をやる気力もなかったりするのだが……なんにせよ、ぼくの中には「子ども」の哲学的なマインドと青春を生きる苦悩がまだフリーズドライされたままで残っているのかなとか思ってしまったりする。
夜になり、英会話教室に赴く。今日が今シーズン(あるいは今年いっぱい)の最後のレッスンで、今日は特別授業としてクイズやゲームを楽しむクリスマスパーティー・タイムを過ごすこととなった。スナックやソフトドリンクを片手に、ワム!や稲垣潤一や山下達郎なんかのクリスマスソングの名曲を楽しみつつ、英語でおしゃべりする。元ジョブコーチとの出会い以前、まだ英語なんて学んでおらずそれどころか生きる気力もさっぱり消え失せて、毎日毎日「なんで生まれてきてしまったんだ」「どこで間違ったのかなあ」と思って毎日毎日泣き暮らしていた時期があったなと思った。ヴェイユ『重力と恩寵』や二階堂奥歯『八本脚の蝶』なんてめくってみたりして……でも、あの出会いがあり、英語を学び直し哲学に徒手空拳で取り組みはじめて、そんな感じで今がある。それは疑いようもなくぼくにとってとてもかけがえのない・神聖なできごとだった。そんなことだって起きるのが人生だ。