ああ、当時のことがぼんやりと思い出される……なんだか生徒たち(とりわけ当時の早稲田は自治会が幅を利かせていたので、「一部の」学生たち)が元気すぎて立て看が立ち並んでいたりビラが撒かれていたりワチャワチャしたところだったなと思うけれど、でも無責任に学生のお気楽な身分としてぼくはそんな大学で4年間を過ごし、実に居心地いい雰囲気を満喫できたと思う。なにせもう30年も前のことで当時のことが鮮明によみがえるわけもなくただ蜃気楼のようにぼんやりと垣間見えるくらいなのだけれど(そう言えば、なんだか広末涼子が入学するとかなんとかでキャンパスが大賑わいを見せたこともあったなあ、とか)、ぼくはサークル活動もバイトもしていなかった無気力な暇人の学生だったのでしたがって大学のどでかい図書館でテリー・イーグルトンやエドワード・サイード、永井均や中島義道や稲葉振一郎の本をめくったりもしたのだった(わかるわけもなかったが、まあ見栄っぱりなのです)。早稲田は、いまはわからないが当時ぼくが青春を過ごしていた時期は苦学生というか庶民の味方みたいなところがあり、いや当時から学費が相当に高騰して苦学生が増えているとか問題はあったにせよ「相対的に」エリート向けじゃない気さくなところがあったのではなかろうか(慶應や東大とはそういうところが違っていたかもしれない……いや、知ったかぶってこんなことを言うべきではないですね)。だから、学生向けにご飯を多めに出してくれるレストラン(食堂)やカフェもまた賑わいを見せていた。もっとそういうところでご飯を食べておいたらよかった(自炊のテクニックも身につけてなかったので、もっと安くまたそうした食堂に引けを採らずおいしくて、かつ夜中でも開いていた学生食堂ばかり使っていたのです)。
たぶん、なんだか気取った言い回しになってしまうがそんな感じの大学で兎にも角にも学び……というかいちおうは4年間を過ごしたので、ぼくのキャラクター的にも早稲田のエッセンスが血の中に流れ込んで自分自身をつくり上げているのかなあ、とは思えなくもない。いや、当時通わせてもらっていた身のぼく自身はさっきも書いたように「なんでこんなことに」「身寄りもない東京で独りぼっちでさびしいなあ」とか罰当たりの極みで思ってしまっていたというのが正直なところだった。それが人生だ。それで、20代・30代はそんな日々のことを文字どおり「穴があったら入りたい」「早稲田まで出させてもらって、結局何者にもなれていない」といま思えば「恥の上塗り」そのもののようなことを考えたりもしたのだった。いまは「まあ、そういう人生もありだ。どうせなら色川武大や田中小実昌みたいに生きてみたいなあ(これまた、そんなことできるわけもないが)」なんて考えられるゆとりもできてきて、少なくとも原寸大・等身大の自分を認められるようにもなったのかな、とは思う。なんにせよ、そんな感じで日々は過ぎる。
今朝、そんなことをあれこれ考えているとこんなことが起きた。社外秘のことと思うのでくわしくは書けないが、別の部署である方の具合が悪くなったのだ。助けに行こうかと思ったのだが、自分の持ち場がいそがしかったことに加えて仮にぼくが行ったとしても緊急事態の応急処置の知識(文字どおり、たとえばAEDをどう使うかとか人工呼吸をどう行うかとかいったきわめて繊細で正確な判断が要請される知識)を自信を持って使いこなせない。それに、すでにトップボスをはじめ上長クラスの方々が続々と集まっておられたようなので、「ぼくのような野次馬が1人増えても足手まといだし倒れられた人にも悪いだろう」と思いその場は行かなかった。いや、それでいいのかどうかわからない(だからこの判断について、ぼくは読者諸賢のお叱りの言葉を受け取る覚悟はある)。ぼくとしてはそうしたことでバウンダリーを引いたつもりだった。だから、その判断がうまく行ったことを願い、もちろんその方が無事に回復されたことをも願いたいと思う。
仕事を終え、英会話教室で英語を学ぶ。次週が今シーズン最後の英会話教室。クリスマスパーティー的な内容の回になるのでスナックとちょっとしたドリンクを手に、おしゃべりに興じられたらと思っている。