跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/12/03 BGM: R.E.M. - What's The Frequency, Kenneth?

今日は早番だった。今朝、いつものようにZoomでの英会話関係のミーティングに顔を出す。そこでひと時、英語を使って話題のトピックを語らう。今日の話題はどんなニュースソース(つまりニュースの発信元)を信頼しているかについて。俗に言う「インフルエンサー」か、あるいはTwitterTikTokなどのSNSか、YouTubeかもしくはマスメディアか、といった具合だ。ぼくの場合はニュースをシェアする人を信頼しているので、あまりTVやYouTubeといったプラットフォームというかなんというか、よくわからないけれどともかく発信元のメディアにはこだわっていない。その後、ふと話題が流行語大賞の話に至る。「ふてほど」なんて使ったことなかったけれど、世の中そういうこともあるものなんだなと思った。いや、くだんのドラマはぼくの友だちも熱心に推していたので興味はあるのだが。

午前中、仕事をしつつふと子どものころのことを振り返ってしまった。子どもの頃といえばまだ世の中が発達障害なんてとんと気づいていなかったころ(いやもちろん、カナーやアスペルガーの先駆的な自閉症研究はあったにせよ90年代を待たなければいまのような「発達障害ブーム」が起きるさきがけにはならなかったはずだ……とうろ覚えで書く。間違っていたらぜひご指摘を!)。だから。両親はぼくのことをおとなしくて優しい子だと言ってくれたのだけれど(ほんとかなあ? と当事者たるぼくとしては思わなくもないが)クラスメイトたちはそういうのをくだらないとかお前はおかしいとかひねくれものだとかさんざん罵倒したのだった。だから文字どおりアイデンティティが引き裂かれ、めまいさえ感じる混乱した状況に置かれてしまったことを思い出せる。いや、親の前では優しくて外では頭がオカシイ子なんて探せばかならず世界のどこかにはいるんだろうけれど……。

偶然とは恐ろしいもので、午後にランチ休憩の際LINEのオープンチャットでとあるグループの哲学的な議論を覗いていたところ、そこで各人のアイデンティティとはいったいどのようなものなのかさかんに対話が試みられていた。それはナショナリティ(国民性)やエスニシティ(民族性)がからむものなのか。もしくはそうしたバックグラウンドを抜きにしてアイデンティティを成立させることは可能なのか(自由に、独立したものとして)。過去、若かった頃のぼくは自分自身が独りぼっちで生きていけると思い込み、ナショナリティを幻想だとさえ思おうとした。これはもちろんベネディクト・アンダーソンあたりから仕入れた理屈のかんぜんな誤解にすぎない(それどころか、読んだかどうかも自信がない。たしかに『想像の共同体』はいまでも持っているのだが)。なんにせよ、いまは自分自身のアイデンティティと日本古来の伝統がどこかで結びついていて、そこから逆らおうとする身振り自体をもまた日本という国の重力圏に直結したものなのかな、とは思えるようになった。反抗期を迎えて親に逆らう子が、その実態として親に依存しているような感じというか……長くなってしまった。

端的に言って、ぼくはかんぜんに「普遍的なもの」「国家を超えたもの」「何者にも依存しないもの」になろうとしたとも言えるかもしれなかった。どこの国でも通用するようなイコンに。それこそアニメキャラ的な存在……やや違うかもしれないが、それこそピカチュウドラクエみたいな存在というべきか。もちろんこんなぼくにそんなこと逆立ちしてもできるわけがない。ぼくは無色透明の水のような存在ではなく、その中を覗けばさまざまな具材的なアイデンティティ構成要素が詰まっていてスープのごとく煮立っているのかなと思う。ぼくの中にもそうした多様性がありうる。あるところでは男であり、発達障害者であり、日本人であり、ロスト・ジェネレーションであり、というような感じだろう。

仕事を終え、ひとくさりふたたび考えごと。「やさしい日本語」を使うことが奨励された環境において、ぼく自身が人に働きかけていくには具体的にどう日本語をブラッシュアップというか磨き上げていけばいいか考えてしまった。それはでも、相手に「言い方に問題がある」「そんな言い方じゃ誰も聞かない」と内容以前に物言いを骨抜きにしてしまうトーン・ポリシングと呼ばれる悪名高い現象と違ってこないだろうか、とか。今日は英会話教室もあり、そこでアメリカのクリスマスシーズンの買い物文化についても学んだのだけれどすでに長々と書きなぐってしまった。ああ、お恥ずかしい。