その後、ランチを食べそして昼寝を楽しんだあといったいどうすべきか考えあぐねてしまう。というのは、5連勤のあとのせっかくの貴重な休日なので完全休養につとめて無理せず1日中部屋でステイホームして、身も心も休めるべきかとも思ったからだ。でも、悲しきかなこの多動性の性分のせいで部屋でじっとしていられず、あといまが見頃と聞いていたこともあり近所のお寺までバイクを走らせてそこで銀杏の木を拝み、お会いできるようだったらそこで働いている友人の住職の方とお話しできたらと思った。だが、行ってみるとその友人は留守だったので無理を言って茶室を使わせてもらい、いつもイオンでやっているような英語でのメモパッドへの「アイデア出し」をさせてもらい、たどたどしく英語をなぐり書きし始めた。
坂本龍一のリミックス盤『ブリコラージュ』を聴きつつ、そこで「アイデア出し」をひとくさり終えたあと今朝借りた『五色のメビウス』をちまちま読む。この本では日本国内に住む外国人(短期滞在・定住問わず)が実にきびしい・スキャンダラスでもある生活を強いられているかさまざまなファクトを重ねることで実に手堅く・ていねいに描写している。ベトナムなどの国から来る労働者がさまざまなエージェントの詐欺行為に遭い、そして日本人の排他的な態度に苦しめられ孤独感を味わわねばならない苦闘・苦悩がありありと伝わってくる。あなどれない1冊だと舌を巻いた。とりわけコロナ禍の時期の生活の悲惨さを描いたところは白眉と呼ぶにいささかもためらいを感じない(本書は2022年刊行のようだ)。
その読書を一段落させたあと、晴れて銀杏の木の写真を撮りそれを友だちと「シェア」する。彼らはよろこんでくれて、ぼくも彼らが示してくれた友情というか愛情に胸が熱くなる思いを禁じ得ない(いや、目頭だって熱くなってくる)。日本ではいま、ブラックフライデーも終わり12月に入ったこともあってクリスマスを祝うムードが花ざかりになりつつある。かつてのぼくのような孤独をかこつ人間にとっては疎外感しか感じようのない季節で、そんなムードを嫌った時期があったことをも思い出す。30代、ついに結婚どころかかけがえのない・甘美な人並みの性愛の可能性すらあきらめないといけないとまで思い込んだ時期、ぼくはそんなムードに唾を吐いて罵倒さえして生きようと思ったものだ。いま、こうして考えてみるとパートナーこそいないものの町に友だちがいるし、さまざまなソーシャルメディアをとおして俗に言うサイバースペースでも友だちも築けている。
思えばタフにならねばと思い、それどころかもっともっとマッチョにならねばとまで思い詰め、そのためには「独りぼっち」「孤独」に耐えねばとまで考えたりもしたっけ。レイモンド・チャンドラー(ぼくは『ロング・グッドバイ』しか読めていないのだが)が作り出したキャラクターであるフィリップ・マーロウを気取ったりして。あるいは村上春樹やその他、ハードボイルドと呼ばれるジャンルの小説を妄想してそこから逆算(?)してとにかく自立して生きられるタフネスを得ようとあがいたりもした。でも、かんぜんに間違っていた。というのは、少なくともぼくの過去を振り返ってみればタフネスとは他者や外界とかかわり合い、それこそ春樹的に言えば「コミットメント」していくことによってこそ磨かれるものだと思うから、だ。